「しつけ」と「教育」の違いとは

「よその子に何かあげてもありがとうとも言わず、黙って受け取るだけ。親のしつけがなっとらん」と怒っていた人がいました。
それに対して「そうだそうだ」と思う人もいれば「そんな小さい子にそこまで期待してもなあ」と思う人もいるでしょうが、私は「それってしつけの問題なのかな」と思います。

たしかに、いかにも親御さんから常日頃「ほら、ありがとうは?」としつけられているらしき子が回らない舌で「アリガトゴザイマス」というのは可愛らしくはありますが、そう言われても私は「あ、おりこうさんですねー」と思うだけで、その子が本気で感謝していると信じるわけではありません。

自分がどうしてありがとうと言うのか、と考えてみると、だいたい次のような理由だと思うのです。

①自分自身が誰かに何かしてあげたとき「ありがとう」と言われてうれしかった経験があり、逆の立場になったときは相手に喜んでほしいから。
②人が人に「ありがとう」と言う場面を多く見て、それによって言った人の評価が高まったり、その場面が美しいものとみなされたり、その後当事者間の関係が良好になるのを知っているから。
③とりあえず「ありがとう」と言っておけば相手がいい気分になってますますこちらに有利な行動をとってくれるようになり、得だから。
④自分のなかに感謝の気持ちが大きくて、言わずにいられなかったから。

このうち①は「人生経験と共感」であり、②は「観察と知識」、③は「打算」、④は「感情表現」です。どれも「しつけ」の結果ではありません。

「ありがとう」と言えない子は、発達段階的にこの4項目を満たすところまで行っていない、ということなのでしょう。
私は児童心理学の知識がないので、平均して何歳ぐらいでその段階に達するのかわかりませんが、たぶん舌が回らないほどの幼児にそれを期待するのは無理ではないでしょうか。
もちろん「ほら、ありがとうは?」式にとりあえず物をもらったらお礼を言うように「しつける」ことはできます。でもそれは犬がお手を覚えるのと同じで、人間としての教育の成果ではないのです。

教育とは、①から④の項目を満たせるように、その子に経験と知識を積ませてあげることだと思います。

相手の感情を推測する力。
他人の行動を観察し、分析する力。
社会の中での評価基準を学ぶ力。
利害関係を計算する力。
自分の感情に名前を付け、表現する力。

それがあって初めて、心からの「ありがとう」が言えるようになります。
ありがとうに限ったことではなく、それはあらゆることについて言えます。たとえば「校則だから黒のヘアゴムをしている子」と「社会の中でファッションが与える印象の違いを学び、黒という色の効果を理解したうえで主体的に黒のヘアゴムを選ぶ子」はまったく違います。

もちろん「しつけ」にまったく意味がないとは思いません。とにかく目の前の子どもを管理しなければならない立場の人にとって、よけいなことを考えずとも食後は歯磨きをするとか、条件反射的に望ましい行動を取るようにしつけたほうが効率はいいでしょう。
ただ逆に「しつけ」で何とかなる範囲はかなり限定的だと言えます。「人を殺してはいけない」などということを「しつけ」で解決するのは不可能です。

どんなにしつけが行き届いても、それだけの人間は調教された犬に過ぎません。

私自身、親のしつけに問題があったとは思いませんが、自分を構成する部分の多くをつくってくれたのは図書館の本だったと思います。

自分では経験できない他人の人生を生きること。
何が美しいのか、何が卑劣なのか、たくさんの事例を知ること。
事実と論理に基づき、結論を出すこと。
他人に伝えるための表現方法を工夫すること。

今でもたくさんの子どもたちが、読書に育てられていると信じます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?