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キュウリを拾った_2024年4月2日/晴れ

まんじゅうとか、どら焼きとか、
ここのところ、そういう「餡子もの」に惹かれている。
理由といえばとくにないけれど、
このあいだ食べた饅頭ときたら、小豆のこしに加えて
重厚な甘さとほんのり塩気が美味しかったせいで、
それからは、あの「餡子」の味わいをからだが欲しがっているのだ。
なにも「餡子」だけじゃなく、
ひとつの食べものを追うことはよくあって、
ちょっと前といえば、塩せんべいに中毒してたりするのですがね。

そんなわけで、今日わたしは、
なんとなくスーパーに行っては「餡子もの」を探した。
花見の時期というのもあって、行ってみたらちょうど饅頭が特売で。
だけど、これがよろしくなかった。
豆大福やら薄皮饅頭やらごま餡もちやら、
そういう「餡子」をひとつひとつ手に取っては、
どんな味かなと頭のなかで吟味するうちに、
ちょっと離れたところで栗入りどら焼きが10%引きなのも気になり、
なんだか、ぼんやりしてわからなくなったのである。
意味もなく饅頭をひっくり返して成分表示を眺めたり、
両手でふたつの饅頭を持ち、どっちがいいかなんて比べてみたり、
そうだな10分くらいかなあ、ふらふらと時間を過ごしてしまった。
だけど、「餡子!」とからだが叫ぶのだからしょうがない、
結局わたしが選んだのは、10%引きの栗入りどら焼きだった。
べつにふたつ、みっつ買ってもいいところを、
はちみつ入りしっとり生地が、ほかの饅頭よりわずかに高級に思えた。

なにをやっているのだろう、と思う買いものではあった。
だけど、こういう時間の使い方も無駄ではないのですね。
今日話したいのは、「餡子もの」を買ったことではなく、
そのあとに、キュウリを拾ったことなのだ。
レジをすませ、スーパーを出たところで、
同じくスーパーから自転車に乗った女性が出てきて、
そのカゴから、キュウリがふと滑り落ちたのだった。
道路の上に、ビニール袋に入った3本のキュウリが放たれている。
落としましたよ、と拾って前を見たけど、
女性は気づかずに走っていってしまった。
いま、わたしは手のなかに3本のキュウリを握っている。
偶然にも、スーパーに行って、
お金を払わずにキュウリをもらっている。
もしも、饅頭を選ぶときに迷ってふらふらしていなかったら、
こうはならなかったわけだ。
というか、彼女が今日スーパーにきたからこそ、
わたしはキュウリをもらえたともいえるな、とも考えた。
運というものをわたしも信じるけれど、
それはじつは、すべてが計算ずくで起きているのではないか。
そんなふうに思えるできごとだった。

朝おきて、何気なく顔を洗い、ご飯を食べてでかける。
話したり、読んだり、ぼんやりしたりして、
人は一日じゅう動くことをやめない。
世界で80億人がめいめいにやっていることが、
運の糸でつながっていると、もしも考えられたら、
そうできたら、なんでもない毎日がちがって見えそうだ。
なにせ、もしも全ての行動がつながっているなら、
「つまらない」ことでさえ、
そう思いながら過ごす時間の長さが
次の運が起こるまでのタイミングなんですからね。

人とかかわるのにいろいろ気を使う世の中だけど、
ところがどっこい、誰もが知らぬ間につながっているんじゃないかなぁ。
買ってきたどら焼きを食べながら、そんな大きなことを考えている。

今日はエプリルフールではありません。これ、ほんとうの話ですからね。

よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。