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猫又とオバケ

にゃぁん……
全国的に酷暑が続く今日この頃、皆様、如何お過ごしだろうか?
いくら夏と言っても、今年の暑さはちと異常過ぎて、連日のように熱中症で人々が倒れて、死者が相次いでいる。

吾輩は毛皮まで被って、しかも脱げもしないわけだから、これはもう毎日が死と隣り合わせに生きているわけで、夜になると、
『おお、今日も何とか夜まで生きのびたぞ……』と、生の喜びを新たにする毎日である。

というわけで、涼をとりたい気持ちでいっぱいなのだが、夏で涼をとると言えば怪談である。

まぁ吾輩、猫又なわけだから、夏と言わず、24時間365日で怪談をふりまいていると言えなくもないわけだが……さて、今回は人間にとってのオバケを主人にレポートしてみようじゃないか。

オバケの実在について

主人:「オバケについてどう思うか、だと?オマエ(猫又)が言うか……」

吾輩:「吾輩も同族を見ておらんからな。オバケや妖怪といったモノが吾輩以外にも本当にいるのかは、ちとわからぬ」

主人:「私もオマエ以外の猫又を見たことがないが……だが、オマエという存在がいる以上、オバケや妖怪といった存在は実在すると考えるのが妥当じゃないか?」

吾輩:「吾輩を知っているから、主人はオバケがいると考えたのだろうが、世間一般に『オバケは存在するか?』と聞いたら、これは否定的な回答が多い気がするぞ?」

主人:「まぁ、その通りだろうよ。だが、オバケが存在すると回答する者は絶対にいる

吾輩:「ふむ。それはなぜだ?」

主人:「『人は信じたいモノを信じる』という話だけでなく、ある者にとって、それは紛れもない経験的事実だからだ。
火の玉や、幽霊というものを見たと思った人にとって、それが光の加減や枯れ尾花だったりという、後付けの客観的・科学的事実など、どうでも良い。火の玉や幽霊を見たという、その時その瞬間には、確かにその人の中に火の玉や幽霊が存在したのだから」

吾輩:「ふむ。科学や客観的事実を重視しないのか?主人は現実的な皮肉屋に見えて、どちらかというとロマンや理想を求めるからな」

主人:「オマエは猫又のくせに現実主義よな?そのくせ、表面的には楽天的で理想家を装ってるんだから。まぁそれはともかく、科学とか客観的事実なぁ……」

オバケを信じること

主人:「世の中の多くの事柄が、科学とか客観的事実とやらで解き明かされた事例は多い。これから先の未来も、きっとそれらで持って世界は発展し、広がっていくのだろう。

だが、人生というのは主観的にしか生きられないものだ。
私の人生における今この痛みを、他の誰が感じて生きているだろう?
そういう意味で、その人が経験した経験的事実というものは、少なくともその人にとって、大いなる意味を持つ。

客観的事実として、オバケが存在するかしないかというのは、オバケの実在を経験した人にとって、あまり意味がない。オバケは確かに居たのだから。

大体、今より昔の江戸時代だってオバケを疑うものはいたが、それから何百年と経ち、科学的進歩というのが魔法のように進んだ現代だって、夜に怯えず悲鳴をあげない、そんな人間に皆がなったかというとそんなことはない。

それは、人間が"直感で信じたモノ"の価値を信じているからだ。
科学的判断といったもので測り難い経験があったとしたら、
その直感で感じたモノの価値は、きっと後でどれだけ理性を働かせたとしても、その経験が全くのゼロ価値になることがないからだ。

昔はそうして直感で感じた、オバケや妖怪や神様など『はかり知れないモノ』があることを、素朴に信じる人の方が大勢だったのだから」

吾輩:「なるほど。それは確かにその通りだ。
だが、直感で信じたモノを捨てることができず、経験的事実というものをどうしても重視してしまうが故に、人間というものは、いつまでもお互いのオバケで、殺し合っているのではないか?

この人が信じるオバケと、あの人が信じるオバケというのが、いつまでも違う形をしているから、人間というものは永遠にオバケを疑い、オバケを信じて、オバケにとり殺されてしまうのではないか?」

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