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40歳の政治論① ~ 忖度と官僚制の政治学 ~

40歳にもなって自分の国の政治のことがよくわからない。

選挙に行ってもあまり深く考えずに投票している自分がいる。

いい歳してそれではとても恥ずかしいので「40歳の政治論」では読書で得た知識を参考に少しづつ政治について学んでいこうと思います。

今回は成蹊大学教授、野口雅弘氏の著書「忖度と官僚の政治学」を参考にします。

本書では、日本の政治を理解するためのキーワードとして忖度と官僚制を取り上げ、ウェーバー、シュミット、アーレント、キルヒハイマー等名だたる政治哲学者の思想から現代の日本における政治の理解と問題点について考察しています。

官僚制と文書主義

官僚制は近代社会に広くみられる組織形態であり、普遍的な現象と言えます。

「官尊民卑」という言葉がある通り、近代日本においては間違いなく「官」の評価は高く、そしてそれ以上に公務員になる人たち自身の自負心が存在していたといいます。

しかしながら、ここ数年で日本における公務員、とりわけキャリア官僚への評価は大きく変化してきています。

近いところでは森友学園に対する国有地の払い下げに携わった財務官僚や女性記者にセクハラ発言を繰り返した事務次官、息子の裏口入学に関与したとされる文科省の局長などはメディアでも大きく取り上げられることとなり、学生の国家公務員試験の受験者数も減少してきています。

これまでも官僚による汚職事件はありましたが、とりわけ1990年代は問題とされたのは業界団体との不適切な関係であり、利害の絡み合いやわかりやすい「天下り」が問題となっていました。

しかしながら、少ない給与で「国」のために頑張っているのだから「天下り」ぐらいいいのではないか、との意見も散見され、きちんと「国」の利益、「地方」の利益のために身体を張っているのだし、当然そのような「目的」で選挙で当選させているのだからと「目的」の正しさは手段のいかがわしさを正当化するという議論もありました。

こうした日本における「官僚制」の理解は現代の政治の理解そのものであり、過去、歴史をみても官僚制にまつわる諸問題は議論されてきています。

フランスの文豪バルザックは「役人の生理学」で官僚について「生きるために俸給を必要とし、自分の職場を離れる自由を持たず、書類作り以外になんの能力もない人間」と辛辣に定義しており、ここで指摘されているように官僚制は文書の作成と保管がその仕事の主となっています。

ドイツの法学者、経済学者である、マックス・ウェーバーは官僚性的な組織は、行政の量的増大、質的複雑化に対応するために形成され、規則による支配、権限の明確化、パーソナルな要素の排除などがこうした組織の特徴になることを述べています。

大規模な組織(国家)において業務内容を共有して「言った」「言わない」という不毛な摩擦を避けるためには「文書」の作成と適切な管理が必要になります。ウェーバーは官僚制的な組織は文書の「精確性・迅速性・文書に対する精通・継続性・慎重性・統一性・厳格な服従関係・摩擦の防止・物的および人的な費用の節約などの「技術的優越性」を持ち、こうした文書主義は近代の官僚性的組織の基礎になると述べています。

そして、「文書」による支配もまた官僚制的
組織の特徴だとウェーバーは考察しています。

文章に精通した人はそうでない素人に対して文書知識の見せ方を有効に使って自らの地位を確実にして、また高めようとします。

彼らは「無益」な論争を生みそうな「余計」な情報は出そうとしません。

「機密」こそ、権力の資源であり、知識や意図の秘密保持もまた彼らが編み出した技術の一つなのです。

このような「文書主義」は官僚制組織の特徴といえるものであり、そしてその技術を合理的に操り、支配するものでありますが、複雑な行政を取りまとめ前に進めていくためには「必要悪」であるとウェーバーは考えており、文書主義の本質はパーソナルな要因を排除して客観性を確保するという点において近代官僚制の意味を見出したのです。

脱官僚とカリスマ

このようは官僚主導の政治体制に対して「自民党をぶっ壊す」と表現した小泉政権と、2009年の民主党によってなされた政権交代はいわば、脱官僚という官僚制に対する批判的な立場を共有して誕生しました。

マックス・ウェーバーが示した官僚的とは先に述べたように「パーソナルではない」「事柄にそくした」もので、これは「人のいかんによって」業務の処理の仕方に偏差が出ないように規則によって規定されているということであり、「脱官僚」とは「パーソナル」なものを呼び戻すことであり、それによって「人」の決断やその決断をもたらした根拠をめぐる党派的な争いが顕在化することを意味します。

別の言い方をすれば「脱官僚」は政治的な決定の幅を押し広げ、それだけなんらかの仕方で決断し、それについてアカウント(説明)する必要の増大を意味し、つまりは問い直しをしたあとに、新たに決定する負荷を担う準備がなければ事態は混乱するばかりであるという危険を孕んでいます。

民主党鳩山政権が直面したのはまさにこのような状態であり、事業仕分けによって多くの無駄を明らかにしたものの、その後の「じゃどうする」といった「決定」に対する責任や説明の負荷に耐えるだけの体制を整えることができずに、結局は「決められない」政治を露呈して民意を得られなくなってしまいました。

一方で小泉政権は同様に「脱官僚」をスローガンに挙げて政局の主導権を握り、規制緩和と民営化によって「小さな政府」を掲げ、これまで行政が担ってきた仕事を縮小することにより、官僚の依存の脱却が図られました。

先の述べた「脱官僚」の問題点に対して小泉政権は「信条主義」というように政治姿勢を崩すことがなく、ブレることが少なかったために脱官僚によってできた隙間を埋めることができたといいます。

しかしながら「信条主義」は別の言い方をすれば「人の話を聞かない」、つまり他者との相互交渉のなかで相互に「選好」を変容させる可能性に乏しいということになりますので、その信条にこだわるあまりに「結果」を損ない、損なった結果に対する責任を果たせないというリスクも孕んでいます。

まとめると、「脱官僚」をスローガンに上げることで不確実性の空間が拡がり、それによる決定の負荷が生じます。 

こうした力学に対して鳩山内閣がとった「友愛」を基本とした多様な立場や利害を排除しないという方法は、決定の負荷をさらに増大させ、決定の先送りを乱発する結果となりました。

ドイツの法学者、哲学者であるカール・シュミットは「主観化された機会原因論」で政治的ロマン主義の問題点としてまさに鳩山内閣が直面した政治的な対立に自らの主体性を介在させない、決断を留保する点を挙げており、カリスマ的な決断のできるリーダーへの期待が高まります。

このような局面ではカリスマ性を前面に出し、状況を打開することが求められますが、そうしたリーダーを構築することが成功したとしても、カリスマと革命は長続きせず「日常化」していくことをウェーバーは指摘しています。

カリスマは常に戦っていなければならず、しかしながら対話の可能性が排除されればされるほど「信条主義」に傾斜し、場合によっては冷静さをかいた非合法的な手段を用いる危険性があります。

ここでヒトラーを例として上げてしまうとすべてのカリスマの否定に繋がるため適当ではないのですが、既存の価値を壊し、規制秩序を打破して顕在化してきた対立の中で集合的な決定をするという、複雑で困難な、尋常ではない「決定の負荷」は時には非合理的な決定を呼び込み、間違った結果を生み出すことも忘れてはいけません。

以上で見てきたように、官僚制は機密による権力によって利害が一致した癒着が起こりやすく、官僚制を否定すれば決定の負荷の増大が起こり、それに伴いカリスマの台頭が求められるというようになります。 

どちらも最終的には権力者の「正義」に委ねられるのですが、万人にとって良い政治というのは非常に難しい問題だということがわかります。

忖度と政治

このようなゴタゴタの中で生まれるのは新自由主義的な優秀な専門技術家(テクノクラート)が支配管理し、科学的・合理的に統治方法です。

市場原理と手続き的な正義を前面に出すことで、論争を避け、「客観性」を標榜することが容易になり、政治的に「中立的」な立場で粛々と話をすすめることができるのです。

このような統治においては「官僚答弁のうまさ」がクローズアップされ、なるべく論争を回避するという行政的な論理が政治の領域で支配的になっていきます。

こうして政治が「行政」化していくことは「忖度」の広がりと結びつくと著者はいいます。

「忖度」はもともと相手の気持ちや意向を推し量るという意味であり、それ自体は特に悪いことでは、忖度があることでうまく事が進むこともあると思います。

しかしながら「忖度」によって土地が数億円値引きされ、公文書の改ざんに至ったのはやはりやりすぎは否めず、問題がないとは言えません。

この「忖度」の原因の説明として、官僚の権力を奪うためにエリート官僚の人事権を内閣人事局の創設によって官邸が掌握したことによって、官僚が「官邸」のご意向に敏感にならざるを得なくなったという説明はわかりやすく、間違いではありませんが、先に述べた政治の「行政」化によって、議論を回避する脱政治化が深まり政策をめぐる論争が低調になればなるほど「忖度」やその場の空気を読む「コミュ力」の比重が大きくなり、そうしたスタイルの政治家や官僚がキャリアップしていくことになります。

今日の日本の政治、とりわけ「官」をめぐる現状を一言で述べると、官僚政治のロジックが優越するなかであっても、個別省庁の官僚の地位は低下しているということになり、こうした「官邸主導のテクノクラシー」という政治体制が過度な「忖度」と結びつきやすくなっているということです。

小泉政権、民主党政権が進めた脱官僚制によって政治の透明性と説明責任(アカウンタビリティ)が求められるようになり、それに応えなくてはいけないという意識が政治に定着してきたことは肯定的に捉えるべきですが、それによって無駄な論争を避け、客観的に物事を説明して、行政的に政治を進めていく政治体制が生まれたことは忘れてはいけません。 

私同様、説得力のある「専門家」の意見や客観的事実のみで粛々と物事が決まっていく現政権の怖さを感じている人も少なくはないのではないでしょうか?

まとめ

「忖度と官僚制の政治学」の著書を参考に現政治体制に至るまでの歴史的な背景と思想について簡単にまとめました。 

このようにして俯瞰してみれば、当たり前のようですがどのような政治体制であっても権力はその構造と形を変えながらも利権と結びつき、問題を抱えていることがわかります。

しかし、綺麗事を言っていても「ヒト、モノ、カネ」が動かなければ政治は進んでいかないことも事実だと思います。

有権者として日本の政治体制の成り立ちや現政権の政治的思想と体制、それが抱える問題点を理解しておくことは必要です。

その政治の「悪」と「正義」が自分たちの「悪」と「正義」とどのぐらい乖離しているのか、その政治が向かった先では誰が恩恵を受けて、誰が犠牲になっているのか、そのトレードオフには「正義」があるのかを判断した先に自分の1票があるのです。

そう思えば自分の1票はとても重く、責任のあるものだと思いますし、非常に難しい判断と決定の上に成り立つものだと思えます。

本書はその判断材料として多くの教養と哲学的思想を与えてくれる良書であり、読後はあまり興味のなかった政治の見方が変わりました。

現政権にもロシア、中国外交、朝鮮半島問題、エネルギー問題、円安問題、物価高、新型コロナウイルス対策など次々と問題が降り掛かっており、その一挙手一投足に注目が集まっています。

本書を基に、耳障りの良い言葉に惑わされず、しっかりと自分の目と頭で現政権を判断をしていければと思います。

 
最後までお読みいただきありがとうございました。
 
 
紹介、参考図書
野口雅弘 著「忖度と官僚制の政治学」

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