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ファビアンは徹底したKUSOONNNAなのか?

最初バカ女なのか?という題名にしていてちょっとあまりにも直情的すぎてやめた。ぼくは昨日パルプ・フィクションを途中まで見てクソおもれえ~~~と思った感想を書いて、いつも途中まで見た映画の感想で続き書くのって珍しいなって思ってたんだけど今日は書きたくなりました。ヘッダ画像をお借りしています。

とりわけこんだけ好評なのに地上波でパルプ・フィクションが流れないのはなんで?と思ってたけどあの意味不明な男同士のレイプシーンのせいだったとは思わなかった。まさにパルプ・フィクションが三文物語の寄せ集めだという意味を体現したシーンでもあるんだろうけど、あの顔出しすらなぜか終盤まで伏せられていたボス(男)がレイプされるという尊厳破壊に合うなんて確かに予想できるわけがない。

それまで念入りに奥さんの足を揉んだだけで半殺しにされるとかプロボクサーのブルース・ウィリスに八百長しろっていうフィクサーで大物でみたいな背景もあるだけに。でもそんな軽はずみなギャップをタランティーノが演出したいだろうか?も疑問である。自分を出しちゃってる時点でもう奇をてらったことがどうのみたいなことは通用しないのかもしれないのだが……

でジョン・トラボルタが落ちぶれていたことにも気づかなかった……といいますか気づくわけねえとは思うんですが、逆にこれで注目されたのではと思ってたらサタデーナイトフィーバーという劇でそもそも見られていたという。それはかなり前であり、もうパルプ・フィクションのとき30代も終わっていたとは……それであんな小物感あふれる演劇ができるなんて熱いね、と。

自分のせいで、引退しようとしているジュールズの車を死体まみれの台無しにしておいて逆ギレ、掃除屋として指導しに来てくれたミスターウルフが喋り方にプリーズをつけなかったから逆ギレはちょっと気が狂ってるといいますか発達障害レベルである。お前のせいでジュールズはスパッと引退できないんだし、車の検問とか受けたらお前らの人生一発で終わるのに、と。

しかもミスターウルフがいなければジミー(クエンティン・タランティーノであり、いくら終盤で出てくるとはいえ自分を出すかっていうのがどういう矜持なのかが伝わって来ない。もしアカデミー?か何かでパルプ・フィクションが受賞するなんて許せないとかろくでもないブーイングをしてタランティーノからファックサインを向けられた男だか女だかが、この点にものすごい説得力ある根拠を持っていたのであれば納得できそうな気がする。今の所それでもぼくはどうでもいっか……と思うように努めてはいるのだが)の奥さんに自分たちが死体処理しているところを見つかり、ジミーとジュールズとの絶縁がたやすく予想され、しかもそれは関係ないビンセントという本来関わりのない部外者である貴様のせいで起こるんだから、貴様が責任を取らなくて誰に押し付けられるんだ?それを助けてくれようとしておりしかも明らかに立場が格段に異なる人が10分で駆けつけると予告しさらに時短して来てくれたのに、という理解不足、義務教育も行き届いてなさそうな馬鹿ぶりである。

なるほど、と。これが三文芝居たるゆえんかと。急速にバカの役割を演じるジョン・トラボルタがおもれえのか、と。そしてそのビンセントは時系列的に生きている瞬間が切り取られただけで、死に方が意味不明、といいますか当人がなぜ俺が死んだのかも理解できてない死に方をしているのがまた滑稽……いや、人が死ぬことを滑稽とは言いたくないのだが、滑稽と思いなさい、とタランティーノは言っているのだろう。

ブルース・ウィリスがまず死ぬほどマフィアから監視されているであろう自宅に戻るという愚行(を起こす羽目になったのはファビアンという自分の女なのだが、不思議なことにマジでハリウッド映画とは男女平等のアメリカ発の文化形成圏で発信されているはずなのに、主人公とか物語に「こうならなければベストなのにな」というクリティカルなバカを徹頭徹尾女にやらせる。ファビアンがブルースに言い訳する様ほど無様な様子がこの映画内に他にあっただろうか?最初はブルース・ウィリスの家から時計を持ってきたと言い張り、次第にわかんないと言い始め……しかも後述する死闘から帰ってき、確かにお前のHondaの車は潰したがバイクで帰ってきてくれて、一も二もなく出かけなきゃやばいっつってるのにブルースの怪我を心配して良妻気取ってるつもりなのか、気遣いができる自分を評価しろとでも言っているのか、いいから行くぞと言っているブルースを差し置いてその場で両手で顔を覆い泣き出して悲劇のヒロインを気取ろうとするこの女にビッチ以外の価値があるなら教えてくれ、と観客にここまで喚起させる意味とはなんだろう?とタランティーノは説明すべきである。もちろん別にぼくはフェミニストでも男根主義でもない。男女どちらにも加担したくない、もちろんそれ以外にも)を起こし、その「立ち向かうべき壁」として登場したのが全体的な主人公だと思われたビンセントなのに、それが一撃でぶっ殺されて滑稽なのか。

せっかく映画という代替のないメディア(少なくとも90年代では)なのに、このようにステレオタイプな役立たず女を演じさせて表現するのはなぜだろう?女の人が主体的に知性を見せつけると何か不利益があるのだろうか。

あるいは女の人が超絶目立ちまくる映画を撮ってしまうと主役を食ってしまうんでしょうか。だから女の人を目立たせてはいけない?このような視聴者をいらつかせる状態まで下げる必要がある?

対比としてブルースがセルロース……じゃなくてそのマフィアのボスの八百長を逆に利用して自分が勝って逃げる時に出会った謎に唐突な存在感があって別になにもないエスメラルダみてえな女の人はなんか知的そう?だったりとよりによってアホのファビアンの直前に出てくるだけに対比が凄まじい。えげつなくて対比って2回言っちゃったよ……

これも三文芝居には必要だってことなのか。クソバカ女と付き合ってるボクサーが奇跡みたいな生還を果たすぜ!その途中でそれまでイケメン(そうか?)主人公っぽいビンセントを何の躊躇いもなくぶっ殺して退場させるなんてまさに三文芝居じゃねえか!ってことなのかねタランティーノ。


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