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亡くなりを発表する家族に寄り添う

非常に感じやすい(センシティブな)人にとって、他者の死は非常に扱い方が難しいように思えるという話をしています。ヘッダ画像をお借りしています。

SNSで誰かがなくなったというニュースの第一報を受け取ってしまった場合、すでにそれを受け取った人々がそれぞれの気持ちを発露していることでしょう。

別に気持ちなんて発露しなくていいんですけどね。SNSってどうも、なにかを無理矢理にでも書き込まねばならないみたいな先入観を持ったまま参加して、誰も別に肯定も否定もしてこないのにずっとその先入観を抱えたまま振る舞い続けることが異様に多い。

いつしかそれはそれぞれのお国のローカル・ルールみたいになってしまい、前回の終わりでも述べた同調圧力みたいな形となってこっちに降り掛かってくる。

とても親しみのある大切などなたかがいなくなってしまったことについて、もっと自由に悲しんでいいはず。何よりも一番悲しいのは家族だと思います。

家族は、自分の家族がいなくなったことに対して心の受け入れをする準備なんてあまりない。近年では、介護施設に入ったままの家族と会うすべが物理的にカットされてしまい、どれだけの大病になったとて(つまり医療機関でも同じといえます)その亡くなりに立ち会えなくなってしまう。

それでも心構えは少しはできそうなだけまだいいのかもしれない。それはウイルス感染を避けるための処遇であったとて、互いに隔離されてしまう環境にNOを突きつけることはできないだろうし(できるとしたら無理やり退院、介護施設との契約を破棄とかしなきゃなのでしょうか?あまりに物理的すぎる)、「そうなる状況」の近づきを否が応でも意識せざるを得ないためです。

ところが突然死の場合そうはいかない。メディアといいますか運営スタッフ的な機関が勝手に死を発表してしまえば、死に対する世間の感想(大きなお世話だ)が家族へ向かうことになる。この場合、家族が死を受け入れるどころか向き合いすらできていないはずなので、残酷さは寿命の場合と段違いです。

だからこそなのかもしれませんが、ソーシャルメディアなんかで亡くなりを発表する機会とは常に後追い化している。流石にしじゅうくにちをまたがないまでも、「見送り」を済ませた状態であり、当該人がいた場所を実際に訪れたとてそれこそ物理的に対面が不可能な段階に「してある」頃を見計らって発表する。

つまり発表する家族からしたら、自分たちが受け入れた亡くなりによる衝動を、自分たちの発表によりより多くの人へと与えることになる。再現することになる。自分たちが乗り越えた(そう簡単には乗り越えられないはずだ)から良いとかじゃなくて、自分たちが味わった喪失を、まだ何もしらない無垢な雛のような不特定大多数に対して与える行為=亡くなりの公式発表をしなければならないなんて、なんと残酷なことなんだろうと思わされる。

残された家族たちの胸中を思うと何も言えなくなる。自分たちが大切な家族の亡くなりで味わったあの感覚を、当人を一番なくしたくなかった自分の能動的な呼びかけで、信じられないほど多くの命たちに伝えねばならないのだ。

「遺族」という、ごく小さなコミュニティに存在するごく少数の人たちの肩にそんな残酷を押し付けられないとぼくは思うんですが、これを回避させてあげる方法ってないんだろうか?公人の死を発表しない自由を求めることは傲慢なのだろうか。一年経ってから発表する例もあるような気がするが、それはつまりそのような意味なのだろうか?


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