見出し画像

お悔やみ申し上げされすぎ問題

誰か著名な第三者がいなくなってしまった時の切り替え方について考えています。ヘッダ画像をお借りしています。

そしてそれはもはや切り替える必要があるのかないのか、という話にすらなっている。

第三者の亡くなりとは、有名な人の訃報ですね。つまりかなり安易にニュース化されてしまう。

ニュース化されてしまうと受け取る時間に差があるから、ユーザ間でかなり温度差が生じるはめになる。得てして誰もが先に受け取ったがわが既に受け取ったなりの感想を述べたり、気持ちの持っていき方をそれなりに考えたのか何なのか、済ませてしまっている景色を見まくることになる。

後から受け取ったがわはその情報を既に受けた人たちを見て何を思うのが正解なんだろう?むしろこの「何を思えば正解なんだろう?」と捉えている時点でなにかが間違っているような気がするし、実際その通り何じゃないかと思う。

つまり、「思わされてしまっている」わけです。他責な言い方が気になられてしまうかもしれない。でも心が弱いと思わされてしまうんじゃないだろうか。

つまり他人にどうこう思わされなければいい。訃報の第一報をSNSで受け取らないようにすればいい。SNSとは「第三者の死を、第三者たちがどのように受け取っているのか」しか見えない場所なわけです。自分の、自発的な、心の根源から湧き出る源泉に従って導かれる波紋が得られる場所ではなくなってしまうんですね。たぶん……

これはエコーチェンバー現象が起こる原因でもあると考えられる。だって人の死に対して速攻で受け入れをしてしまったようなテンプレート的「お悔やみ申し上げます」の嵐が巻き起こった場合、上記のような弱い心だと「『お悔やみ申し上げます』が正しい受け取り方なんや」みたいに思ってしまう。

そしてそれをそのまんま発動して、よし!自分も大衆の一部となることができた、と理解してしまう。その大衆とは本当は大衆ではなく幻想=エコーでしかないと気づけない。

悔やんでも悔やみきれない。たった一人だけそう発露してしまうときっと「浮いている」とか第三者に思われてしまう、と自己の内部では思えてしまうのでしょう。あいつ受け止めきれてねーよ、って思われちゃうな、弱いやつだってことがばれちゃうな、みたいな……

だったらハイリー・センシティブになっとらんで強い心を持てと意見されてしまうのかもしれない。でも簡単にそれが実行できるんだったら世界がハイリーな人々で溢れていないようにも思えるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?