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しからば誰が猫の首に鈴を付けに行くか

2月も過ぎて行きもう半分を超えた今頃書くべきか迷ったが、私は“今年の抱負”を毎年やんわり決めていて、今年もやんわり決めた。それまではたいてい“やりたいこと”で考えてきた。前年に出来なかったことや、それまで挑戦してこなかったことや、逃げてきたことへ目を向け、漠然とした“やりたいこと”でなんとか一年をやり過ごしてきた。
私はもうそれすら“やめよう”と思った。諦めではなく、逃走ではなく、とにかく“やめたいこと”で今年を生きようと思った。それが存外むずかしいことはこの2ヶ月で理解できたが…やると決めたらやるのだ。いや、やめると決めたらやめるのだ…か?。

natural成る

「我らは神の代理人、神罰の地上代行者!」も「月に代わっておしおきよ!」も誰かの何かの大きな力によって遣わされ、運命や使命という言葉に翻弄されながら、苦しみ生きる道を歩かされる。傷付いた心身は本当にリジェネレーション自己再生能力ヒーリング回復法術でなおるのだろうか…?。まぁ…なおるんだよな。なぜなら彼らは人ではない。あ、いや、マンガだとかアニメだとかそういうことじゃあない。文字通り人であることをやめたからだ。アンデルセン神父も、中学生のうさぎも、ただのちっぽけな人間である自分の名を捨て、神や月の名を借り、人を超越したその存在へと成り変わる。それはもはや人の形をした“力そのもの”である。
では自分もいつの日か何かに成り変わるのであろうか。否、それは生まれる前から決められている。大きな存在から授けられている。もう、とうの昔に既に変わっているのだ。皆、気付かなかったであろう。私も今の今まで気付かなかった。この身体からだ生命いのちを創った創造主サマ(両親)は、我々に様々な意味を背負わせる。この子にこんな風に育ってほしい、あんな様に成ってほしい。そうして付けられた名前には紛うことなき大きな力が宿る。それがなんであれ、子は否が応に背負わざるをえないのだ。名付けられたその瞬間、私は私に成るのだ。


stop and stare踏み止まって

人類の歴史は闘争の歴史だと何かの本で読んだ。あの頃の中坊の小さい脳みそではピンと来なかったが、大人になった今、小規模ながら日常にも闘争は有ると解る。他人の空気感や、友人の言葉や、恋人の態度、家族の行動、私にはどれも縁遠い悩みだが誰しもが日々、小さな戦争で自分のテリトリーを保守している。心の国境警備お疲れ様です。グレートでスよ。
そういった争いが生み出すものの中に輝くものがあるとは到底思えないが、実際にあってしまうから恐ろしい。それを手に入れたと同時に、その実、この心から何か大事なものがなくなってしまうことにも気付かず、ただ“勝ちとった”ということに酔狂して…実に哀れだ…。
勝ち取ったものと失ったもの、それらを天秤にかけている時点で、すでに大きく負けているのだ。本当に大切なことは、天秤にかけたりしないし。してはいけない。忘れてはいけないのは自分だけでなく誰しもがそういったブラックボックスを持っている事を理解する点にある。それでも他人から奪ったり、奪われたりするそれを「馬鹿馬鹿しい」と拒絶することはとても難しい。だがどこかでその勝負から降りなければならない。それも潔く、冷徹に。他人と関わる中で、心をかけると言うのはそういった他人の心に踏み入ってはじめて動き出す。領土を犯してはじめて対話がはじまるのだ。事実、その闘争の果てに希望を見ることも出来る。った、られた、ではなく。さずけた、もたらされた、と感じられる精神を、もし持つことができたのならば、きっと私は私をやめることができる。そうしてはじめて長い夜が明け、幼年期の終わりを迎える。コレを読む“あなた”は夜明けにどうしているだろうか…


麗しいを司る…は?

オレが産まれた時、けっこう面倒くさかったらしい。それは色んな親族から直接聞いた。本当の父親には会ったこともない。会いたいとか思ったりしたこともあったが結局のところ、一度も会うことなく故郷いなかから離れ、もう10年近くその地を踏むこともない。
会ったこともない父親の名を半分、オレは継いでいる。コレはあんまり人に知られたくない。だがこうしてここに書くのは誰かに読んでほしいからだ、数多あまたの文字、インターネットの海、電子データの渦に一滴混ぜて仕舞えば、そのどちらの願望も満たせるとオレは思った。その名前をよく褒めていただく。「綺麗だね」「いい名前だね」それはとっても嬉しい。有難い限りだ。けれどいつも返す言葉は決まっていて「いえ、そんな事ないです。名前負けしますよほんと…」とネガティブな言葉を使うしかなかった。その裏側には母子を捨て、浮気相手とガキを作り同じ学区内に住み続けるという傲慢な男の影がチラつくからだ。母が18のオレに言った言葉を、永遠に忘れることはない。「これから先、あんたには女の人がたくさん寄ってくるよ、そう言う血を継いでるからね。だから相手はきちんと選びなさい。そういう目を持ちなさい。」それがどういう意図だったとしても、ガキのオレには「愚かなあの人と同じ性質を持つお前は、どうせ同じ人生を歩むよ。」とどこか哀れんでいる様に感じた。
多分母はオレを好いていなかったと思う。たとえ本人から「そんなことないですよ。愛していますよ。」と言って頂いたところで、それは覆らない。『腹を痛めて産んだ子が憎いわけがないじゃない』そう思う母親が大多数だとオレも思う。けれど世の中にはそうじゃない母親がいても仕方がないとも思う。本来、こうでなくてはいけない、こうあるべきである、という強い言葉はあまり使いたくない。だからこそあえて使わせてもらうが、人は自由であるべきだとオレは思う。憎めしい男の遺伝子を持つ子どもが自分の腹から壮絶な痛みと共に出てきたと思うとオレはゾッとする。オレならその場で………いや…これはかなり倫理観を欠いている…間違っている…。けれど、自分ならどうだろうと考えた時、どうしてもオレが産まれたことで母が幸せになったとは思うことができなかった。育ての父親とも離婚してしまって、いよいよオレは好きでもない男の顔を持ち、好きでもない男の心を持った、自分を不幸にした子どもに成ってしまったのだ。残念だが愛せるはずがないのだ。よく思い出せば、小さい頃から異常にさかしいガキだった。学問的なかしこいんではない、妙に大人びた利口ぶってなまいきなさかしいガキだった。小学校低学年の担任は通知簿に「とても冷たい子」と書いていたらしい。事実かなり小さい頃から大人の顔色を伺って何かを選択する事をしていた様に思う。利益や効率を優先して子どもらしい感情的な愛らしさみたいなものを捨て、いかにおとなしい・扱いやすい・手のかからない子どもでいるかに一生懸命だった。時にそうした子どもらしさすら理解して武器にすることもあった。
正論は人間関係をただただ鈍重にするが、時にこの担任教師の様に立場や地位を捨て、がの領土を開け放ち、高く築いた塀や城を一度平坦にし、言わねばならない瞬間が必ず有る。「冷たい子」の詳細を今はもう読み返すことは出来ないが、あの頃の教師を想って、対話を続けることは出来る。時代を超えその言葉がオレの指を動かす様に、あの頃の教師を救う事も出来るかもしれない。オカルトかもしれないが、現実に今20年近くも前の事に心動かされているのだから。
冷たい“レイ”じゃなくてやっぱ麗しいほうがいいよね。自分の名前くらいオレが好きでいてあげなきゃ、可哀想じゃんね。踊るのを躊躇ってしまうんじゃなくて、たとえ俯いたままでも踊ればいいんだよな。眩しい名札を持ってたって、誰かが成り変わりようのないオレはオレなんだから。


Sunshine Baby瞼の裏側に

生きるのをやめたかったあの日と違って、生きる為に様々なことをやめたいと思った今日この頃。
正しいかどうかは知らんが、月曜の雨の電車の中は“暗いcry”ことも今まで知らなくって、あぁこんな銀の箱に押し詰められるくらいなら、いっそ飛び込んじゃいたいな…なんて気持ちだってちゃんと理解できる。だけどその電車の中で、妊婦に席を譲る瞬間に“目覚め”を感じることができる。このまだ名もないかもあるかもしれない赤子が、母親の腹の中で何かをしっかりと認識して、感じ、育っているのならば、少なからず先をゆく我々大人がインスタントに死を感じさせてはいけないのだろうな…とかなんとか考えたって、朝から立って通勤する電車は辛いんだよ…。そういうことは生まれてから知るべきだ。私が母子にかけた人が持つべき当たり前の優しさが、母親の臍の緒を通じて新たな生命に何か微力ながら影響を与えるかもしれない。もしそうだとしたなら…はぁ…どうかやさしく、健やかに育ってくれ…そうだ…結局私は祈らざるを得ないのだ…。誠に恥ずかしい限りだが、背負わせる苦しみをわかっていながら、どうしたって我々は後を歩くものに、大なり小なり背負わせざるを得ないのだ…情けないな…。けれどもそうした願いや祈りをやめてはいけない。何にも成れないちっぽけな私には祈るしかない…祈ることしかできないから、それだけは怠ってはいけない。

どれだけ悩んで苦しんでも、自分の人生から降りることは出来ない。やめられないことに囚われて、今やれることを全うしないことの方が、私にとっては苦しみの根源だと書き終わる今はそう思う。こうして文字を編むことも、いつかは出来なくなってしまうかもしれない。けれど、その時にはきっとまた違う表現を手に入れているだろうと思う。きっと私は私が持つ力によって、私に成るのだ。他の誰の何でもない、私が私の器に、私の力を注いで私は私に成るのだ。その力が何かは私にはまだわからない、けれどきっと私を愛してくれる人達がそれを教えてくれる…齎してくれる。その煌めきをひとひかりも溢さないよう、俯いて踊るだけの夜をやめたい。たとえ一人であっても夜はみなに等しいから。


吉川 れーじ

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