令和の北前船 2022夏 DAY3-2 関ヶ原サイクリング
いざ関ヶ原
9月9日(金)。
10時に敦賀を出発し琵琶湖東岸を通って名神高速に入る手前の長浜で北陸道を降りる。「賤ヶ岳SA」でかなりテンションが上がる。
関ヶ原古戦場記念館
正午、関ヶ原到着。
まずは中心部にある関ヶ原古戦場記念館へ。
最新の博物館であり、「関ヶ原の戦い」の予備知識がなくても一通りの流れが分かるように解説されている。
『関ヶ原って一度は聞いたことあるけど場所どこだっけ?』という状態を何とかしたいと岐阜県が整備した施設らしい。
5階の展望室からは現在の関ヶ原の景色を一望することができた。
正直、北海道民の感覚からすると「狭い盆地だな…これなら半日で終わるのも納得…」と思ってしまう。
敦賀~関ヶ原も高速で1時間足らずで着いてしまう距離。道中には秀吉が初めて大名となった地、長浜。秀吉対柴田勝家の合戦の地、賤ヶ岳。北近江の雄、浅井長政の居城小谷城などがあるのだが、かなり密集している…という印象。戦国時代が、いかに猫の額ほどの狭い土地を巡って争っていた時代だったかがよく分かるのである。
1階では関ヶ原の戦いを描いたシアターを見学。
まずは床に投影される「グラウンド・ビジョン」で
秀吉の死→豊臣家臣団の分裂→上杉討伐→小山評定→関ヶ原という
関ヶ原に至るまでの流れをしっかりおさらい。
その後、シアタールームへ移動し関ヶ原の戦いを追体験する。
最新技術を用いた光、音、風、席の振動といった演出がたっぷり。
あたかも自分が1600年の関ヶ原の戦い当日に身を置いているかのような感覚になる。もし、自分が一兵卒として参陣していたとしてこの場を生き残れる自信は…ない…。
ナレーションはバラエティーでもお馴染みの某人気講談師。
歴史好きならば一見の価値ありだと思う。
ちなみに記念館で知ったことだが関ヶ原は「世界三大古戦場」の一つ。
残り2つはアメリカ独立戦争の激戦地ゲティスバーグと、ナポレオン戦争のワーテルロー。それぞれ日米欧でその後の歴史を決定づけた場所である。
歴史ファンとして行くべき場所が増えてしまうな…笑。
狭い盆地とはいえ車で巡るには旧街道で道が狭くて不便だし歩くには時間がかかりすぎると思ったので関ヶ原駅前の観光案内所でレンタサイクルを利用。
「観光地」という訳ではないけれど、各武将の陣跡には看板や旗が立っていて、「石田三成陣跡この先500m」みたいな案内板もたくさんあって巡りやすい。
大一大万大吉
記念館の程近くには「松平忠吉・井伊直政陣跡」。
この2人の先陣により、関ヶ原の戦いがスタートした。
5分ほど自転車を漕ぐと「決戦の地」。
最も戦いが激しかった場所であり、左奥には石田三成の陣地、笹尾山が見える。
ということで、笹尾山へ行ってみる。
写真には見切れているが右側には小早川秀秋の陣があった松尾山がある。
「南宮山の毛利勢はなぜ動かぬ…松尾山の小早川の動きはどうなっておるのだ…我ら西軍に味方するはずではなかったのか…」とイライラする三成の心情が手に取るように分かる。
一般に、関ヶ原の陣形は西軍有利であったとされている。
しかし、度重なる裏切りや日和見を決め込んだ毛利や島津といった西国大名の存在により、三成に勝利はもたらされなかった。
島津については後述するが、毛利にとってみれば参戦して勝ったところで
中国地方の領地が増えるわけでもない。毛利元就以来、「毛利家は天下を狙わない 」「三本の矢の教え」のような姿勢、そして毛利家存続の視点で考えると中央の争いに巻き込まれるような判断をしなかったことは当然なのかも知れない。毛利は関ヶ原後、領地を大幅に減らされ中国一円の領地は周防長門
(山口県)だけになってしまう。城も日本海側の萩に移される。
幕末、「長州藩」として多くの人材を輩出し、徳川を倒すことになるのだが、このときの毛利勢は知る由もない。
石田三成は「太閤検地」など軍人ではなく官僚として豊臣政権を支えた武将であり、「最短経路で最適解を求める」人物だったように思う。
しかし、戦場では(今の時代もそうか)時々刻々と変化していく状況に対応することが常に求められる。
プランAがだめなら、予め用意しておいたプランB、Cに対して柔軟に対応しなくてはならない。
もし軍師福島が側に居たら、「ここは兵を近江、京へと徐々に引き大阪城決戦に持ち込みましょう。秀頼様に弓を引く状況となっては、家康も簡単に手出しできません。豊臣恩顧の東軍の武将たちも心変わりするかも知れませんぞ…。」と進言するかな…と現地を見ていて思う。
野戦の名人である家康に、結果的には関ヶ原という狭い盆地におびき出される形となってしまった三成に想いを馳せた。
三成の旗印は「大一大万大吉」。
「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味らしい。
平和な時代に官僚として職務を全うしてほしかった人物である。
島津の退き口
笹尾山を下り、次に向かうのは「島津義弘陣跡」。
「島津の退き口」って結構マニアックな出来事なのだが、記念館のシアターで
しっかり解説されていたので寄ってみる。
関ヶ原に西軍として参戦したものの三成の要請に応じず全く兵を動かすことのなかった義弘。島津としては毛利同様、勝ったところで南九州の領地が増えることも考えにくいので、関ヶ原に参戦するメリットを感じなかったのだろうか。
小早川の裏切り後、東軍の勝利が決定的になるとまさかの東軍の中央を敵陣突破。伊勢街道をひたすら南下し、はるばる薩摩へと帰還した。
両軍双方からすれば「何を余計なことをやってるんだ…」という感想なのだろうが、島津としては「我々としては好き勝手にやらせてもらおう。島津の武勇を見せつけてやれ。」といったところか。この敵陣突破は壮絶であったらしく、先程先陣を切ったと紹介した家康の家臣、井伊直政はこの時受けた傷が元で関ヶ原の2年後に亡くなっている。無事薩摩まで逃げ帰った島津軍は義弘含め数えるほどであったらしい。
これで島津の恐ろしさを知った家康は島津が西軍であったにも関わらず、薩摩と大隅(鹿児島県)の島津所領を安堵。
しかし、関ヶ原の260年後、薩摩は明治維新で主要な役割を果たし徳川家を倒すことになる。
義弘が駆けた道は、明治維新の萌芽を生んでいた…と考えると歴史は面白い。
松尾山の小早川
島津陣跡を抜けると旧中山道と合流。
昔の街道らしい雰囲気ある道を漕いでいく。。
次に向かうのは松尾山の小早川秀秋陣跡。
道中には「福島正則陣跡」。
東海道新幹線、名神高速の下をくぐると松尾山登山口。
ここから陣のあった山頂までは片道40分。
普通はなかなか行かないだろうな…笑。
松尾山の標高は315m。頂上からは関ヶ原を一望できる。
標高以上の高度感があり、ここから裏切った軍勢が一気に盆地になだれ込んだとしたら、そりゃ東軍勝つよね…という気分に。
小早川秀秋、この時わずか19歳である。
いくら10代前半で元服する時代とはいえ、まだ戦国の世の右も左も分からない年齢…。
細かい史実がどうであったかは私の知るところではないが、
大軍を率い、英傑たちの都合の良いように天下分け目の戦に巻き込まれたこの若武者を、私は責めることはできない。
この裏切りにより、「天下分け目の関ヶ原」は僅か半日で東軍の勝利に終わった。
大谷吉継
松尾山を下り、大谷吉継陣跡へ。
個人的に関ヶ原諸将の中では一番好きな武将である。
中山道を越え、静かな山中を進んだ先にそれはあった。
大谷吉継は白い頭巾がトレードマークだが、その理由はハンセン病を患っていたためとされる。当時は不治の病。
関ケ原の参陣の際には、既に自らの足で立つこともままならず、家臣の担ぐ輿に乗って出陣していたとされる。
同じ官僚として馬があった三成との友情に殉じた男、と一般的には言われている。秀吉からもその能力を高く評価されていただけに、病気で思うような人生を歩めなかったことは無念だっただろう。
この地を浮世の最後の散り際に選んだのだろうか。
小山評定から家康が関ヶ原へ向かう際、「勝機なし」と吉継は何度も三成を説得したが、結局決意が固い三成の気持ちを変えることができず、敗戦を予測しながらも三成の西軍に参陣。
小早川の裏切りを事前に予測していたとされており、あえて松尾山山麓に布陣。松尾山を駆け下る大量の小早川軍相手に必死に奮戦するも敗退。実際、小早川の裏切りに呼応して寝返った西軍諸将が小早川の他にもいたので彼らの攻撃を一手に引き受けることになる。
この時の吉継の病状は、頭巾を脱ぐと肌の組織が壊死しているのがはっきり見てとれるほど悪化していたようである。
最期を悟った吉継は「この醜い顔を決して敵に晒してはならぬ」と自身の首を隠すように家臣・湯浅五助に命じ、自刃。首を隠した直後、東軍の藤堂高虎の甥に見つかった五助は、自らの首と引換に吉継の首の秘匿を懇願。吉継の墓は藤堂家により建立されたとのこと。吉継の墓は、介添を担当した家臣・湯浅五助と並んで立っていた。
陣跡の近くにあるお墓に手を合わせる。
三成含め西軍諸将は敗走中に捕らえられ京都三条川原で斬首、もしくは島流しとなっているので吉継は関ヶ原に散った数少ない武将。
三成同様、平和な時代に力を発揮してほしかった人物である。
吉継の所領は越前敦賀5万石。不思議な縁を感じる。
壬申の乱
ここ関ヶ原は東海と近畿を結ぶ要衝の地であり、かつては中山道、
現在でも東海道新幹線、東海道本線、名神高速道路が通っている。
正式な東海道は鈴鹿峠を越えるため、山越えをせずに関西方面に抜けるには
必ず通る場所とされる。
そのため、関ヶ原以前にも「壬申の乱」「承久の乱」の舞台となった。
「承久の乱」は大河に無理矢理合わせた感があったので笑、壬申の乱について。
旧中山道沿いの「不破関資料館」を訪ねた。
壬申の乱において、大海人皇子(天智天皇の弟で後の天武天皇)と大友皇子(天智天皇の息子)が最初に激突した場所らしい。
「天下分け目の戦い」は何度もこの地で繰り広げられてきたのだ。
壬申の乱(672年)は、乙巳の変に代表される大化の改新を行なった中大兄皇子こと天智天皇の死後に起きた後継者争い。この戦いに勝利した天武天皇、そしてその妻である鸕野讚良こと持統天皇(天照大御神のモデルともされる)は藤原京にて律令国家の礎を築き、その基盤は奈良時代、平安時代へと続いていく。まさに古代日本の姿を決定づけた戦いであった。
泰平の世へ
時計の針を戦国へと戻し、関ヶ原駅前で自転車を返却して関ヶ原サイクリング終了。
記念館の裏手には徳川家康最後の陣地。
家康は当初桃配山という関ヶ原の東端に陣を置いていたが、
東軍優勢になるにつれて陣を前方に移動している。
実際のところ、家康はそれなりにアタフタしていたらしいのだが
そこは「勝ちに不思議の勝ちあり」である。
若き日の家康は「三方ヶ原の戦い(1573年)」で武田信玄に大敗を喫し、その悔しさを忘れないために悔しがる自らの肖像画を描かせ、それを携帯することで人生の糧としていた。それから27年、家康の苦難の「三方ヶ原」は栄光の「関ヶ原」となりこれを機に天下人へと駆け上がっていく。このとき家康58歳。苦難を重ねてきた戦国の老将が遂に報われた瞬間であった。どちらかというと西軍寄りにこの記事を書いてきたが、私自身三英傑の中では飛び抜けて家康が好きなのである。
最後、関ヶ原を去る前に「黒田長政陣跡 岡山峰火場」に登ってみた。
開戦後に、攻撃の合図である烽火(のろし)を上げた場所。
三成の陣地、笹尾山がすぐ近くに見える。
この距離だったら黒田長政と石田三成は互いの顔色が手に取るように分かったのではないか…。
たっぷり5時間も滞在してしまった関ヶ原。
歴史ファンにとってはたまらない場所だった。
この日は翌日以降に備え北国街道を北へ移動し越前に投宿(そろそろ戦国モードから戻ろう笑)だったので、福井市へ向けて北陸道を北上した。
いろいろな時代に日本史の表舞台に登場してきたこの盆地。
英雄譚が語られがちではあるが、その裏には名もなき足軽や民衆の物語も隠れている。これまでこの盆地に存在した人の数だけ物語があることを忘れてはならない。
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