Syrup16g 苦痛が基本、だが

ある程度年をとってしまうと、いろいろあったけどとりあえず生きててよかったかな、などと人生をそれっぽくまとめる知恵もつくのだが、若い時はそうではない。
ありきたりで安直で、希望的にまとめてみましたという体の歌なんて卑怯で嘘くさくて頭悪そうで聴く気にもならず、泥濘に顔面から突っ込んで倒れ込んで起き上がらずにそのまんま呻き続ける、というぎりぎりの心境でどうにか過ごしていた自分が飛びついたのが、Syrup16gであった。
鬱ロックの元祖と言われ、絶望などという簡単な話ではなく、生きるでも死ぬでもなく、淀みに身を任せ、悪態を吐きつつ濁った目で自分も周囲をも眺めながら、ただかろうじて存在している、というイメージは中原中也、萩原朔太郎なんかにも同じような部分があり、ある意味では真っ当に悩むことの出来る若者の特権だと思っていた。

しかしそれは自分の思い違いであった。

このバンドは一度活動を停止したが、数年後に還って来て現在に至っており、若者と呼ばれる年齢を過ぎても「生きているよりマシさ」と言い切る。ああ、変わってない(音が多少洗練されたような印象はあったが)と20年来のリスナーとしては万全の信頼感だ。
苦悩が自分のことだけで済んでいた頃と違い、年齢を重ねると人生の苦は多重でより複雑になる。家庭という檻、社会という穢土、〇〇システムという網に絡め取られて身動きすらできず呼吸が苦しい、もういいよお腹いっぱい、とある日ふっと消えてしまいたくなる日々。20世紀まで、おかしなほどに信奉されてきた右肩上がりの経済成長、いつまでもそんなもん続くわけねぇだろ、と未来が明るいなどとは誰も信じていない21世紀のいま、彼等の歌は若者のものどころかどんな世代へも響く普遍の音楽である。

「心なんて一生不安さ」(「生活」)

不安を解消するためだけに生き、ひとつの不安をやっとのことで潰した端から新たな不安が湧いてくる、その繰り返しにくたびれ果てていた頃、この言葉に出会った。

ああ、そうなのか、一生このままなのか。
それならもう不安と戦わなくていいんだ、と、哀しい諦めに囲われながら、いくらか安心したのを覚えている。

鬱々と過ごす日々、自暴自棄、やるせない哀しみ、時に絶叫し、ほんの少しの希望と絶壁に左右され疲弊するルーティン、生は基本、苦痛、というあまりに簡素な真実の手前でうそぶき、諦め、のたうち回る歌に混じって、初々しいラブソングがいくつかある。

「幸せは やばいんだ」(「夢」)

と歌いつつ、同じアルバム(「Mouth to mouse」、2004)に収められている
「Your eyes closed」では

「愛しかないとか思っちゃうやばい」

と、叫ぶ。

「自分なんかが幸せになってはいけない」

なんらかの理由があり、そう感じている人は少なくない。
彼等は、幸せを享受することへの後ろめたさを感じている。それぞれの事情はあるにせよ、その裏側にはどうしようもない劣等感や喪失感、必要以上の罪悪感があったりする。

そんな人間が、ある時、愛を知った。

愛に、幸せに翻弄されつつ、 
いくらか抵抗もしつつ、
ひどく照れながら、遠慮もしながら、
本当のことを言うのはとてもとても
恥ずかしいけれど、
これでいいのか、自分でいいのか、と
臆病なまま震えながら、

それでいいんだ と、
震えながら愛の場所へ軟着陸する。

「愛しかないとか思っちゃうやばい」

この後に続く言葉は、1コーラスと2コーラスでは見事に移り変わり、愛を信じることの出来るようになった自分自身の姿を映し出してみせる。この曲は、アルバムの最後に収められていて、静かに終わる。

あまりにも不器用で、あまりにも素直な姿の歌に、新鮮な驚きと、祝福という言葉が浮かんだ。

幸せとは、とても、シンプルなことで、
それでいて、というか、だからこそ、
なかなか表現出来得ない。
シンプルな言葉でしか、表せない。

幸せとは、生の喜びであって、
「生まれてきてよかった」
と言える瞬間が、その極致である。

この曲でいえば、
「あなたと出会って 素晴らしくなって」

この一行に尽きる。

生きていれば嫌なことの連続で、90%くらいは理不尽だったり思い通りにならなかったりで、8%くらいは多少まっとうなこともあり、まれに、生きててよかったかもな、ということも、2%くらいは、ある。その2%にうまく騙されながら、自分も生を続けているのかも知れない。

戦乱、災害、犯罪、病苦、貧困、防げない不幸、あるいは人智というものを生かせば防ぎ得たはずの不幸、それが増大、連鎖していくのを止められない不幸、その渦中で苦しむ人々がこの世にはあまりにも多すぎる。そのなかで生きざるを得ないひとに、安全な対岸から無責任な励ましの言葉をかけるのは、あまりに非道い。

ただ、大き過ぎる不幸に遭い押しつぶされそうになりながらも、どうにかして生き続けようとする、その意思を抱いて歩み始めようとするひとがいるなら、対岸ではなく傍らに立ち、希望という不安定でも必ずあるというものの存在を、たとえそれが100のうちの2%であったとしても、共に目指したいと願う。
その為のいとなみを、自分が為せることを、微力でも続けるのだ、
90%の理不尽を舐めつつ、「心なんて一生不安さ」と呟きながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?