「無常」は「無情」か〜平家物語と祖母の言葉


体の機能は、年を取るに従って不具合が増えてくる。それは自然のことではあるが、それを自覚するのはそう楽しいものでもない。
数ヶ月前のある日、突然体のあちこちに異変が起こった。少し落ち着いたかと思えばその後も無視できない異変が続けざまに出現し、治ったものもあるが、元通りにはならず醜くその痕跡を残しながら一進一退、あるいは一進三退とでも言うように経過をたどる様子は、
「もうもとには戻らない」
「以前と同じではない」
ことの悲しさを嫌と言うほど感じさせる。

「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」
この名文に出会ったのは中学生の頃で、それに続く部分を暗唱させられつつ、自分はなぜか「無常」を「無情」と思い込んでいた。
今思えば、「無常」という言葉の意味合いがいまひとつ分からず、そのかわりに「無情」(これなら理解出来た)を勝手に置き換えていたふしもあるのだが、それこそこの一行から「無情」に過ぎて行く時間の残酷さ、侘しさを感じていたのである。

「平家物語」は「軍記物」の代表、と学校では習うが、「源氏物語」と並び平安時代が生んだエンタメ巨編だ。滅びゆく人々の運命を活写(耳なし芳一が琵琶をかき鳴らして語るそれは、さぞかし鬼気迫るものであったろう)するのみならず、登場人物も多種多様で、陰謀、悲恋、合戦、人情話とそれぞれのシーンでちゃんと読みどころを押さえており、それでいてどこを読んでも人の生の哀しさが漂う。平忠盛といういち武人から成り上がり、清盛の代で栄華の頂点に至りながらもその後は坂を転げ落ちる如くのありさま、(勝った源氏だって結局三代で終わる)良くも悪くも世の中ずっと同じ状態が続くことはないと言う当たり前の真実を、この一行は静かに、重く突きつける。

「いつまでも同じじゃない」
地方の裕福な家に生まれ育ち、許婚いいなずけの家でもお姫様のような暮らしが続くと信じていた祖母のこの口ぐせを、母はいつも聞いていたという。
長身の好青年だった伴侶である祖父は、代々続く地主の跡取りだったが全く働かない道楽者であった。徴兵され、どうにか帰還し、これからは子どもの教育が必要だと痛感して、土地を切り売りしては四人の子の学費を捻出する一方、相変わらず働くことはなく、畑に野菜ではなく花を植えるような人であった。子どもに、知り合いの家へ米をもらいに行かせた。都会に出ては愛人を作った。

当然のように家は傾き、使用人も消え、屋敷は取り壊された。祖母は小さな体で産んだ七人の子のうち、双子を含む三人をごく幼いうちに亡くした。家からほど近い先祖代々の墓には、両手にすっぽりおさまってしまうような小さな墓石が立っている。祖母は「悲しくて涙も出なかった」と言っていたそうだ。

世間知らずのお嬢様だった祖母には、成す術がなかった。豪雪地帯の山あいの小さな集落の中では、ただ、運命に従順であるほかなかった。無数の女性が、そうせざるを得なかったように。

きれい好きだった祖母が、後年視力も衰え、ゴミが落ちているのにすぐには気がつかず、「もう気にならなくなったよ」と笑いながら言った時、母は泣きそうになったという。
祖母の口ぐせは、彼女なりの処世の術を身につけた結果だったかもしれない。あるいは、孫と同じように、平家物語の冒頭を学校で暗記させられ、思うに任せぬ長い時間を過ごすうちにその文面が蘇り、自分なりの言葉として吐き出されたものかも知れない。

自分は祖母と離れて住んでいて、夏休みなどにたまに会うくらいだったが、おっとりとして、どことなく可愛らしい、優しい人であった。
「いつまでも同じじゃない」と自分自身に言い聞かせていたであろう祖母に、でも苦しいことばかり続くわけじゃない、いいこともあるよ、おばあちゃん、と、孫としてもっと優しく出来たらよかったのに、と今となっては哀しく思う。

時間の流れは、変化と同義であり、「昔は良かった」などと懐かしんだり、「あの時ああしていれば」などと悔いたり、「日にち薬だよ」などと解釈する人間の思惑など関係なく、ただひたすらに進むだけである。そこには冷徹も温情もない。
そう思えば、自分の中学生の頃の思い込みも、あながち的外れとは言えないのかもしれない。

変化は、不安を引き起こす。だから人間は、安心を、変わらないものを求める。しかしこの世に変わらないものなど無い。あるとすれば、それは時間が進むということだけだろう。

「いつまでも同じじゃない」
それは、ぬるい現状のなかに安穏としていたい怠惰な者への警鐘の言葉であり、その一方で、自身ではどうにもならない厳しい現実に翻弄されている者への励ましの言葉にもなりうる。
祖母は体が弱いと言いつつも八十過ぎまで生きた。彼女の人生から絞り出されたこの一言は、子孫への贈り物だったかもしれないと、日々の出来ごとに一喜一憂するなかで痛切に感じるのである。



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