先史時代のポルトガル(下)~青銅器時代
00.はしがき
ここでは、ポルトガルの歴史についてお話しした際のメモ書きを公開しています。おおむね石器時代から青銅器時代を扱った部分です。なお、メモ書きは、アンソニー・ディズニー著『ポルトガルとポルトガル帝国の歴史』に基づいて作ってあります。関心のある方は、Anthony Disney, A History of Portugal and the Portuguese Empire(2009)をご覧ください。
以下、「先史時代のポルトガル(上)」のつづきとなります。
こちらも参考にしてください。
04.青銅器時代のポルトガル
青銅器時代とは
さて、デンマークの考古学者であるクリスチャン=ユルゲンセンは、先史時代を、石器、青銅器、鉄器の各時代に区分しました。これを三時代区分法といいます。このうち、青銅器時代は、実用的な刃物が青銅製となり、かつ鉄の冶金技術が知られていない時代を言います。ですから、祭りに使われる道具が青銅製であっても、青銅製の刃物が普及していないと青銅器時代と認定されないことになっています。
そんなわけで、日本列島では、新石器時代からすぐに鉄器時代へと移行してしまい、青銅器時代は存在しないことになっています。それは銅剣などが出土してもおおむね祭祀用であり、同じ時代に鉄器も作られているためです。
また、青銅は銅と錫を混ぜた合金ですから、錫がないと青銅も作れないことになります。それゆえ、銅だけが用いられる時代を銅器時代と呼ぶこともあります。
ポルトガルにおける青銅器時代の到来
ポルトガルの場合、新石器時代から初期的な青銅器時代へは急激なものではなかったと考えられています。青銅器時代への移行は割とゆっくりしていたといわれます。
ポルトガルでも、紀元前2500年ぐらいまでには金や銀、そして銅はなどが知られるようになったといわれます。とくに、ポルトガル南部は、銅がヨーロッパでも早い時期に採掘された場所です。
ポルトガルにおける青銅器時代は、アルガルヴェ東部とバイショ・アレンテージョの銅の産地からはじまりました。当初、産出量は少なく、装飾品が生産されていました。それがすぐに実用的な、銅製の斧、錐(きり)、ビュラン(のみ)、短剣、そして原始的な縫い針などの商品に変わりました。そして、銅製品は、貨幣の一種として使われるようになりました。
一方、青銅製品は、紀元前2000年と1500年の間に出現しました。鋳造技術は、ヨーロッパ北部から導入されたようです。紀元前1000年代までスズがポルトガル北部で採掘されるようになり、南部で算出した銅と一緒に使われるようになって、ポルトガル青銅産業ができていきました。
こうしたなかで、ポルトガルでも、動物によるけん引、乗馬、乳製品の製造、羊毛の生産、織物、灌漑の導入、そして鋤の使用がはじまりました。とくに、こうした北部よりも、エストレマドゥーラや南部でははっきりとみらられるといいます。
交易・交通網の発達
青銅器時代、現在ポルトガルと呼ばれる地域は次第に広い地域とつながってきました。
現在ポルトガルと呼ばれる地域の各所で製造された銅や青銅、鐘状ビーカーなどがイベリア半島だけなく、ピレネー以北にも運ばれていったのです。なかでも、当時はエストゥレマドゥーラが重要な地域となっていました。たとえば、リスボンやセトゥーバルにある鐘状ビーカーが製造された遺跡は、100か所を超えるといわれます。
そうした製造品は、陸路では山の尾根に流通路の痕跡が残されているといいます。また、すでに海路も利用されていたようです。ディズニーは、ポルトガル語の「サヴェイロsaveiro」に注目しています。サヴェイロは青銅器時代に作られた船舶に起源をもっていると考えられているのです。サヴェイロは竜骨も、舵も、マストもない古代のデザインをもつ船であったといわれます。このことから、ディズニーは、海上交通はこの時期からはじまっていたと考えています。
青銅器時代の後半には、現在ポルトガルと呼ばれる地域の内外で、商品の交換が恒常化していきました。ポルトガルで生産された銅や青銅は各地に運ばれます。青銅器時代のポルトガルの金属製品は、アイルランドのような遠隔地やポルトガル国内で発見されています。また、反対に、現在のポルトガルでは、ヨーロッパの大西洋側や地中海両方に起源がある輸入品の数多くの発見されています。
青銅器時代の社会
青銅器時代には、まだ都市はありませんでしたが、ある程度まとまった規模の人数が集住していました。ポルトガル南部には、1~5ヘクタール程度の広さの集落ができていました。集落には、150~350人程度が住んでいたとされます。また、そのような大きな集落の周辺にも、集住地が存在していました。小さな定住地はしばしば30~40人程度でした。
集落には、シンプルな居住空間に加えて、防衛施設も構築されるようになっていました。防備を整えた集落は、ポルトガルの青銅器時代中期までは、低地の郊外に見晴らしの良い、防備のない村が形作られていましたが、後期になって丘の上に建てられた「カストロcastro」と呼ばれる砦が増加し始めました。
カストロは、地域の結節点として生じたようです。集落間の交流や交易が盛んになった結果です。カストロのいくつかは、穀物を供給することができるような地下の貯蔵施設を持っていましたし、生産拠点となったカストロには、工芸品の生産や採掘に集中するもののありました。
とくに、ポルトガル北部のカストロは、たんなる中心地というだけでなく、地域で支配的な地位を持つようになりました。カストロを拠点とする人々が、穀倉地帯のような低地の定住地から税を集めたり、ローカルなスズの生産と流通を管理したりして、その代わりに保護を与えた事例もあります。同様に、アレンテージョでも、隣接する土地や銅鉱山を支配するカストロが存在していたといわれます。
このようなカストロのなかでは、おそらくヒエラルキーが生じていたはずです。ポルトガルで見つかる紀元前1000年代の石碑に刻まれた戦士像は、その一部を示すものと考えられます。石碑に刻まれた時点で、戦士がある程度社会的に重要な地位にあったということが示されるからです。ちなみに戦士像が刻まれた石碑はポルトガル全土でよく見つかっているそうです。
信仰
ディズニーは、青銅器時代に新たな信仰が生れたという説を紹介しています。
すでに述べたように、新石器時代までは巨石などが文化的なシンボルとして存在したのですが、青銅器時代には姿を消します。代わって、土器などに「瞳」を描く事例が増えたといいます。それは青銅器時代に地中海から伝播してきた地母神信仰を示すものだと考えられています。
このことから、青銅器時代には、地中海世界から伝播した信仰が、現在ポルトガルと呼ばれる地域で信仰されるようになったと考えられているわけです。
おわりに
以上で確認してきたように、ポルトガルにはヨーロッパのほかの地域同様、10万年以上前から人類が生きた痕跡が残されています。氷河期を経て、旧石器時代、中石器時代、そして新石器時代に移行していきます。ポルトガルの特徴は、中石器時代が長かったといわれることです。
多くの地域でも同じような現象が起こっているのかもしれませんが、新石器時代以降、人間社会は狩猟採集社会から定住社会へ移行します。その過程で人間社会にはヒエラルキーが生れていったようです。ポルトガルでは、新石器時代にみられた巨石文化にその萌芽がみられました。つまり、巨石を動かせるほどの権力が生れていた可能性がみられたわけです。
やがて青銅器時代には社会の階層化を示す遺物がみつかりました。そのひとつが、戦士像の存在です。戦士以外にどんな人々がいたのか、先行研究ではわかっていませんが、すくなとも戦士とみられる人々とそれ以外の区別が生れていたことは間違いないようです。
ただし、このときはまだポルトガルなる国も、ポルトガル人なる人も存在しません。言い換えれば、ポルトガル人らしきものが生れてくるその萌芽は次の時代以降の歴史となります。
読書案内
グレイアム・クラーク、1989年、『中石器時代 新石器文化の揺籃期』、雄山閣出版株式会社
カトリーヌ・ルブタン、1994年、『ヨーロッパの始まり 新石器時代と巨石文化』、創元社
フェルナン・ブローデル、2008年、『地中海の記憶 先史時代と古代』、藤原書店
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