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「僕が文科省なら今の学校システムを変える」そうな

長男がタイムリーな発言をした。本人は、文科省の「特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する指導・支援の在り方等について」は知らないはずだ。家庭で議題にしたことはない。

私が「でもあんたに合うようにしたら、今度は大半の子が付いて来れないっていう問題が発生しないかね?」と言うと、「じゃあ新しく学校作る」と返ってきた。

私 :へー、いいんじゃない?けど、もしかしてそれって、そういう思いを持った人が結局、中学受験するような学校を作ったってことなのかな?標準教育だけじゃ物足りない、もっと広く深くそれぞれの興味とか特性を伸ばせるような学校が必要だって。

長男 :かもね。

私  :だとしたら、中学受験を目指すっていう今の方向性は合ってそうだね。

長男 :うん。確かにね。

私  :もし学校作ってさ、なんで学校作ろうと思ったんですかって訊かれて、校長自身が結構苦労したんだって話はストーリーとしてたぶん惹きつけるものあると思うよ。小さい時から順風満帆でずっとハッピーでしたみたいな話は誰も聞きたくないからね。

文科省は「ギフテッド」という表現は使わない

それで文科省が検討している新しい支援については、敢えて「ギフテッド」を対象にしているとは言わないそうだ(関連リンクは最終段)。

では何を対象にするのかと言ったら、現場の教師が特異な才能があると判断した生徒を選ぶと。おっと。長男の通知表は本人の凸凹とは対照的に、驚くほど平坦だ。しかも、3列の右寄りで。絶対選ばれないだろう。IQの方が先生の判断よりマシではないか?

それでも、IQだけで選ぶのは良くない、才能はIQで測れない分野も沢山ある等々、IQで測ることにかなりの抵抗があるのだろう。これが遺伝ともなるとさらにやっかいだ。

でも考えてみたら、一流の野球選手やオリンピック選手の身体能力だとか、音楽家、囲碁や将棋の世界の著名人も遺伝による部分はあるだろう。これを全て努力だけと言えるのか?あとは運もあるのだろうけれど、遺伝の要素を完全に否定はできないのではないだろうか。2世とか、代々やっているという話は聞くではないか。

運動で秀でた才能があればスポーツ選手、あるいはスポーツギフテッド、知的能力の場合は知的ギフテッド、EQならEQギフテッドということで誰しもギフテッドな部分はあるだろう。

ギフテッドと言ったとき、知的な能力以外はギフテッドではない、ということは言っていないと思う。一般的に知的ギフテッドの事を略してギフテッドと言うことが多いからその他を排除しているように聞こえている可能性がある。明確に「知的」ギフテッドとすれば、他のギフテッドを否定することにはならないだろう。

しかしまだ問題はある。身体能力や芸術の能力は隠す必要はないけど、知的能力は表立っては出せないというのが悲しいが現実ではないだろうか。学年でダントツ足が速い子がいても素直にすごいねと思えるが、頭の話になるとそうはいかない。

運動や芸術だと大勢の人からしたらリアリティーがないというか、自分も同じように目指そうとは思っていない世界なので、ある意味いくらでも応援できるが、IQが高くて理解力が人よりも高いし理解度も深いですという話は、内心皆が目指したい所なので耳障りが良くない。

小学校の場合は知的な学習が重点の1つであり、組織として運営するためには平均から一定範囲内の大多数を対象にできるような仕組みを作らざるを得ない。当然のことながらこの枠から顕著に排除さてしまうのが、知的ギフテッドだ。しかし義務教育だから彼らも対象にはなっていて、結果、多大な苦痛を強いてしまっている。これは何とかしないといけないし、国家経済を考えても対策を取る意味があると考えているのだろう。

でもIQは使えない。

多分、そんなに警戒しなくても、いろんな人の家系に知的ギフテッドが出てくる可能性は常にあるのではないだろうか。単に、いつ誰に発現するか、あとはどれくらい強く出るかが違うだけで、多くの人にはそれがたまたまバランスの良い形で発現したに過ぎない。我が家は長男以外でピンポイントにギフテッドと思う人が見当たらないのだが、私か夫のどちらかの家系におそらくギフテッドの特性を持つ人がいたはずで、長男にはたまたまそれがやや強めに出たのだろう。

私立などの学校が既にその役割を担っている?

文科省の支援はこれから軌道に乗っていくのだと思うが、既に私立等々の学校で運営されている教育システムというのは、それこそギフティッド児に限定することなく様々な才能のある子や興味関心を同じく高いレベルで持つ子達を対象にしているという点で、既に上手くできているように思う。子供の方も標準教育の枠を超えて学びたいと思って集まっているのだろう。

我が子に関しては、もし入れるなら、これで良いのではないかと思っている。残念ながらギフティッド児だから受験に強いという訳でもないし、校風の合う合わないで選択肢が見つからないこともあるだろうから、受験すれば解決するという簡単な話ではないと思っている。あとは、入ったけど出ていけと言われる可能性もある。

勝手に私がこの人はギフティッドなのではないかと思っている著名人の何人かは、こういった受験して入る学校に進んだ後も、何かと周囲と同じには行かなかったというエピソードを披露されている。それでも、学校がそう言う特異なものを持った人に慣れていて包容力があるように感じる。

テーマとしては推進してほしい

学校という現場では、ややもするとこういう子達は問題児とか発達の問題と簡単に結論づけられてしまいやすい。よって、実は必要なのはこういう支援であるということが認識されることは、方向性としては良かったのではないかと思っている。

長男については、学校から発達支援の案内をもらったときに、この文科省の話に私から少し触れてみた。カウンセラーの先生はギフティッドのことは知っていても、この支援の話は知らなかったし、担任の先生もピンと来ていないようだったので、数年前から文科省では議題になっていても、学校現場ではほとんど認識されていないのではないだろうか。

同省の有識者会議では「ギフテッド」という表現をあえて使わないとしている。岩永氏は「いろいろな考え方があると思う」とした上で「まず、ギフテッドはキリスト教的な考え方をする国々の発想だ。要するに、自ら持っているものよりも、存在自体が『神から与えられたもの』でその中でも『突出してたくさん与えられた』というイメージでこの言葉が使われている」と説明。

 続けて「日本ではかつて英才や秀才、天才など、だいぶ色のついた言い方をしていた。今世紀に入ってから『ギフテッドと言っているよ』と海外暮らしの人たちから入ってきて、普及してきたと思う。まだ、意味合いがこういうものだと確定している表現でもないので、危険だ。そういう意味で、有識者会議そのものも『特定分野に特異な才能のある児童』という表現をしている。我々委員の間でもギフテッドというあいまいな言い方は、できるだけ避けるようにしようと合意ができている」とコメント。特定分野に特異な才能を持つ児童かどうかは、現場の教師が判断していくという。

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