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家族の肖像(Conversation Piece)

 私は昔から、セットで撮影された映画が好きだ。なぜなら、全てが監督により計算された、意味が込められたもののみが映像に映り込み、その映像の意図するところがわかりやすいからだ。(小説的的といおうか)

 ヴィスコンティの映画は、ネオレアリズモ的な初期の作品(「揺れる大地」や「郵便配達は2度ベルを鳴らす」「若者のすべて」など)はともかくとして、ほとんどがセットで撮影された映画である。潤沢な予算で贅沢なセットを作り出して、そこで物語が繰り広げられていく。映画美術の技量が試される映画だ。その中でも、「家族の肖像」は珍しく、ある邸宅の密室のみで終始完結される。(時折映る窓の外の景色でさえも作り物であるというから驚きだ)

私はこの映画をいつもヴィスコンティ監督の遺作だと勘違いしてしまう。(本当は「イノセント」。)しかしこの映画は彼の集大成をミニマリズム化したもののように捉えられるのだ。

 主人公は金持ちでローマ中心街の邸宅に一人で暮らす老教授。美術コレクターでもあり、中でも18世記のイギリス画家によって描かれた”Conversation Piece"という家族団欒図をこよなく愛している。そこに突然あるブルジョワ夫人が「この邸宅が気に入った」と勝手に乱入し、あれよあれよと彼女の家族(娘、娘婿、愛人)が雪崩れ込む。老教授(そう、この主人公には珍しく名前がない。何か象徴的であるように。「ベニスに死す」のタッジオでさえあったのに)はこの図々しい家族に対して抵抗感を示すも、実は家族には憧れがあり、なんだかんだ受け入れる。また夫人の愛人であるコンラッド(ヘルムート・バーガー)をまるで息子のように寵愛するようになる。

 冒頭にセット撮影の映画が好きだと書いたが、終始同じ舞台で物語が展開していく映画は大大大好きだ。空間が狭いからこそ、いろいろなメタファーとして読み取れるので意図が多義的になりやすい。いわば舞台的である。

 この彼の邸宅は、彼の心そのものであると言って良い。彼は彼のプライベートゾーンを長い間頑なに守り続けていた。自分の良いと思うものだけで固め、世界を作ってきた。何か過去に家族に関して悲しい出来事があったようだし、単純に人間臭さを忌み嫌っているようだ。歳をとると色々と面倒臭くなる。少しだけ、彼の母親と彼の妻が理想化されたような夢のようなシーンが挿入されている。(ここには突然、美しき母と妻として、ドミニク・サンダーとクラウディア・カルディナーレが出てくる)このシーンで彼の過去がわかることはあまり何もない。綺麗な思い出というだけである。(教授本人の若かりし頃も映らず目線のみである)

 そこに、ぱッと、かび臭い暗がりの部屋の窓を夫人が、パッと開けて、室内に光が差込み、全く別の世界が目の前に展開された。そしてもうとてつもなく人間臭い、欲望にまみれた家族が”侵入”してくるのである。(ブルジョワ、貴族の人間臭さを描かせたらヴィスコンティは天下一品)ズカズカと土足で彼の心を踏みにじっていく。そして、彼の精神の破壊を表すかのように、邸宅は天井に穴が開けられたり勝手に改装をされたり好き勝手に荒らされる。彼はあんなにまで迷惑な人々に嫌気がさすが、何故かいつも意味のわからない言語で捲し立てられて丸め込まれてしまうのである。あの臭さを不快に思いながらも、どこか懐かしさを感じるためであろうか、それともコンラッドがどうしても気になるからだろうか。

 最初はコンラッドのことを粗雑な不良青年ぐらいにしか見ていない教授だったが、だんだんと彼の教養の高さや美しさに惹かれていく。(部屋全体を見回して「趣味ではないが良いものだというものはわかる」と言われて老人は嬉しそうであった)どんなに心を閉ざしていても、もう真の美しさには抗えないという点は「ベニスに死す」と構造が似ていると思うが、(そしてそれはホモセクシャル的な愛情へと変化していくという点も共通している)それに加えて本作品の主人公は、自分の持っているものを伝承していきたいと言う衝動に駆られる。子供がいない自分の中で父性に似たものを自己発見をするのだ。息子を守りたい。そして綺麗なものを囲っておきたい。あの欲まみれの夫人からも、若者たち、世の中のものすべてから断ち切って、美しいものを美しいままにしておきたい。そんな気持ちから、あの隠し扉の中のベッドに寝かせたのだと思う。(あの鳥籠の登場も象徴的で、教授自身なのかもしれないし、コンラッドなのかもしれない)

 しかし彼の期待を裏切り(ナチュラルにか、あるいは意識的にか)、コンラッドはその隠し扉を開けっぱなしにして、裸でドラッグをやりながら夫人令嬢とその婚約者と踊るのである。部屋をめちゃめちゃにされて怒り浸透というより、理解不能の教授だが、やはり一瞬そのデカダンスな光景に見惚れてしまうのだ。そこには彼は決して入れない。自分は美の一部にはなれない。(夫人令嬢に海へ誘われても一緒に行かないシーンもある。ところでこの夫人令嬢のキャラクターがいい。天真爛漫で無邪気で素直で、脈絡のないことを言い出したりするが、誰に対しても対等に接する。老人の孤独から連れ出そうとする。老人を柔らかくする。夫人の描き方もうまくて、自分にどんどん都合良いように物事を忘れ、また自らに嘘を信じ込ませるこの性格は、社会の無常さを感じさせるのにちょうど良い)

 あの卑しい人たちに対してこの神経質な老人は、なぜかおおらかになってしまうのである。それは他人であるのにまるで本当の家族のよう。なんだか利害関係と快楽で成り立っているような歪な夫人家族も、教授のことがなんだか見つかったパズルピースみたいに思っているような時もある。これは壊れた家族の再生の物語のようでもある。(ヴィスコンティの映画は家族が崩壊していく映画が多い。そういう意味ではこの映画のタイトルは非常にストレートである。)

 しかしやはりお互いに入り込めない。結局親子みたいにはなれないのだ。老人は自分が無力だとこの若者たちの前で度々思い知らされるのである。最後に彼は手紙を残して死んでいるが、彼は自殺したのだろうか。多くの評論に「自殺」と書かれているが、私は他殺だと思う。

この映画が内省的だという人、つまり老人はヴィスコンティ自身だ、もしくはヴィスコンティの映画自身だという人もいる。もしかしたら政治的意味合いもあるのかもしれない。

 ヴィスコンティの作品は、今ではほとんど見ることができない豪奢な貴族や上流階級の人々を描写する作品が多いため、(初期は違うが)古美術のような位置づけになりがちである。しかしこの映画は現代劇などに置き換える、など試みてみたらそれはそれで面白そうだと私は思うのだ。

この映画を岩波ホールでみれたこと、今では本当に幸運だったと思う。


(↓これはAmazon Primeありました!やった!)

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