なんでも先回りして教えない・尽くさない
子どもが学校や人前で失敗しないように・困らないようにと、
先回りして身支度も勉強のことも、何でもしてしまうことありませんか?
我が子に困ってほしくないから、ついつい親心でやってしまう。
その気持ちはよく分かります。
うまくいった時、親は安心できます。
でも、これはやり過ぎると困りもので、大人の言う通りのことをいつもさせていると、人にしてもらうことが当たり前になり、指示待ち・相手の意見待ちのスタンスで生活してしまうようになります。
もし困ったことが起きた時、「こうしなさい」と言った相手が悪いんだと、人のせいにしてしまうこともあります。
「お父さんが○○しろって言ったから!」
「お母さんが言ってくれなかったから悪いんじゃん!」
と言って、自分でしないといけないことでも、
親の言うとおりにした結果だ!
親が根回ししてくれなかったせいだ!
と、親の責任にしてキレる子もいます。
してもらうことが当たり前になって、感謝の気持ちも持ちません。
あるいは「いちいちうるさい」と反発してきたり、
相手の反応や言うことばかり気にして、自分の言動や判断に自信を持てず、意思決定の力が低くなっている子も…
他者の言動に頼り過ぎて、自分の行動や判断を振り返ることができない人に育ってしまうと、自分一人では何もできず、将来本人も周りももっと困ってしまうのです。
社会で通用しにくい人になってしまうのです。
何かと困らないように、自分で何でもできるようにと思ってあれこれ先回りして教えた結果が、かえって自立を妨げ、自己判断では動けない人にしてしまうことが現代は多いのです。
何事にも良し悪しがあって、良かれと思ってしたことでも、やり過ぎると毒になってしまいます。
加減は大事です。
支える・助ける・教えることは良いことですが、
加減しながらしなければなりません。
先に先にと“教える”のではなく、
“自分でさせる”“自分で考える”力を育てることに大人は注力しなければなりません。
「あなたはこんな時どうしたら良いと思う?」
「何が大事だと思う?」
「あなたが今できること、したいことは何だろう?」
「自分が困らないようにするために、次からはどう対策すれば良いと思う?」
そういった問いかけをしていかなければなりません。
その問いから自分がすべきことを考えさせるのです。
子どもだけでなく、大人同士の間でも通じることだと思います。
例えば、新入社員の教育とか、後輩に教える時であったりとか。
どの年齢、どの世代であっても、答えをすぐにあげるものではありません。
答えをすぐに示すことはお互いに楽なことで、手っ取り早いことかもしれませんが、それが学びになるかというと、そうではないことの方が多いです。
ただ楽チンなだけです。あまり印象には残りません。
教わっただけ・聞いただけの情報は記憶に残りにくいので、滅多に活かされることがありません。
自分たちの時代はこうだった、と先人の教訓や経験をしみじみと伝えた方が良いということでもありません。
もちろん知らないこと・初めて経験することは教えなければなりませんが、
内容と状況と相手を総合して考え、相手に必要なことが何であるかを見出し、教えなければなりません。
“教える”とは、教育する・指し示す・先生側から注入する、という意味があります。
“教”の漢字は、鞭打って鍛えるという意味合いから成り立っていて、一方的でもあります。
もう一つ、“おしえる”には“誨える”という字があるのです。
これは論語の中によく出てくる言葉です。
“毎”の部分には、『暗い』という意味合いが含まれています。
『暗さを言葉によって取り除く』
これが“誨える”ということです。
一人一人に向き合い、自分自身を高めようとする気持ちや、意欲、努力する心を引き出そうという思いが込められた言葉です。
本人が悩みに悩んで、苦しみながらも悩み抜いて、それでもどうすれば良いのか分からず、どうしようもないと頼ってきた時に、必要なことを伝えるのです。
「まずは自分で悩み尽くしなさい」と、本人にまずは頑張らせます。
誰であってもまずは自分で頑張らなければならないのです。
それを導く側にいる人は見守り、時を見て、助け舟を出す。
『簡単には教えてやらない』と、論語の中では語られています。
昔の人はそうして人の成長を促してきたのでしょう。
自分で考え判断するからこそ、印象に残り、永続的な学びとなっていきます。
自分で思考し、それをもとに行動して、失敗もして、さらに工夫しながら物事に取り組ませていく方が、うまくできた時に心から喜ぶことができます。
そしてまた挑戦しようという意欲がわいてきます。
子どもの判断に任せて、大人は何もせず見守る・考えさせる・適度に放っておく勇気も必要ですね。
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