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ポチポチ物語4

 僕が小学校に通う通学路に、必ずつまずくと言われているくぼみがある。
 それは、コンクリートの道にある足の裏サイズのくぼみで、なんでそんなのができたのか、誰にもわからないのだけど、なぜか、この道を通ろうとする人は、みんなこのくぼみにつまずくのだ。
 なぜだろう?
 だって、くぼみがあるのはみんな知ってるし、今度こそは避けて通ろうと思うのに、つまずいたらコケそうになるし、実際コケる人もいるし、それがめんどうだから、気を付けようと思うのに。
 なぜだろう?
 なぜ、あると分かってるくぼみにつまずくのか?
 このくぼみは、僕たち小学生たちの間では、一つの謎として語られていて、都市伝説、学校の怪談、霊的な奴が宿ってるらしいよ~なんてありがちな文脈で語られたりしてるのだけど、そうやって盛り上がるのが楽しいのが僕ら小学生で、まあ、話のネタができたって意味では、良かったとも言えた。
 誰もがつまずくくぼみの謎。
 それを解き明かしたいと僕らはいつも思ってたけど、でも僕らは小学生なりに忙しくて、勉強だのなんだので、モヤモヤ空想で盛り上がれるのも時間の問題で、これから中学校に上がったらさらに勉強は難しくなるし、もっと頑張らないといけなくて、そもそも僕ら小学生にできることなんて限られていたし、くぼみの謎を解き明かす、なんてスゴいことができるはずもなかった。
 そもそも、くぼみに謎を付与して物語をつくって仲間内で盛り上がることができるのは小学生くらいのもので、大人になればもっといろんなことができるようになるのだろうが、もうその頃にはくぼみに興味なんかわかなくなっていて、他のいろんな問題にかかりきりになって、誰もがつまずくくぼみなんて、ただめんどくさいだけでしかない。
 だから、無力な小学生であるうちが、タイムリミットなのだ。
 小さいうちに、無力なうちに、なにも知らないうちに、くぼみの謎は解き明かすべきなのだ。
 で、僕は考える。
 くぼみにつまずくのは、くぼみの存在を忘れてるからだ。なぜ忘れるのか、それはくぼみがどうでもいいからだ。なぜくぼみがどうでもいいのか、それはくぼみにつまずくこと自体が、実はどうでもいいのではないか?
 つまずくこと自体がどうでもいい?
 どうしてどうでもいいのだろう?
 だって、つまずくとコケるし、コケたら痛いじゃないか?
 どうしてそれを忘れてしまうのか?
 僕はうんうん考えるのだけど、どうしても、ここから一歩も先へ進まない。
 だって、コケたら痛い、ということから逃れられないから。
 忘れてしまう、ということが理解できないから。
 だから、小学生の僕にはわからないのだ。
 誰もがつまずくくぼみの謎なんて。
 僕は諦めてしまう。

 そんな話を、僕は目の前の彼にする。
 彼はYouTuberで、ネタを探しているのだ。
 「面白そうだね」
 と、彼は言う。
 「まあ、ただの思い出話なんだけど」
 「でも、良いと思う」
 「そう?」
 「うん。物語がありそうで」
 「そう。まだあるといいけど」
 「確かめるから、場所を教えて」
 僕はくぼみの場所を伝えて、彼と別れる。
 くぼみをうまいことネタにしてくれたらなと思う。
 それがいいことなのかは、わからないけど。
 でも、くぼみは確かに僕のノスタルジーだっし、その謎に本気で取り組めるのなんて、令和の現代に至ってはYouTuberくらいのものじゃないか?
 だから頑張ってほしい。応援してる。
 応援するだけだけど。

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