社会人になっても希死念慮が消えない
こんばんは、社会人の筆者です。
煙草もお酒も余裕で嗜める年齢になって数年。
漠然と大人になったら消えるだろうと思っていた希死念慮が、幼い頃からずっと消えずにいます。
希死念慮を抱えている理由として筆者の家庭環境や自身の考え、哲学的思考の持ち主の著書などが原因として挙げられますが、死ねたら楽なのにという気持ちは小学生頃から薄らと抱えていました。
筆者の思想としては、遅かれ早かれ全員死ぬんだから幸せの絶頂期にスパッと絶命した方がコスパがいいんじゃないかと考えています。
命に対してコスパとか言うのは良くないですが、例えば人生の中期が幸せの絶頂だとすれば、死に行くだけの人生の後期に向けた準備や延命に時間や労力を割くのは勿体ない気がしてならないのです。
もちろん長生きすること自体は素晴らしい事ですよ。その人と長く生きていたいと望んでくれる人がいるなら尚更、それ以上に素晴らしいことは無いと思います。そのような考えの方を否定したい訳ではありません。
筆者には一緒に長生きしたいと言ってくれる交際者もいますが、その気持ちがわかる一方で尚希死念慮が消えないのです。
おそらくですが、筆者は死にかけだから自分の人生に主観的になれないのです。
家庭で嫌な想いをして自分で布団の中で首を絞めてみたり、いじめられて自殺の仕方を調べたり、ハラスメントを受けて急性ストレス障害にかかったり、家庭問題で揉めて離人症を患ったり……
様々な人の支えによってこれまでの人生で自殺の実行に至らなくても、死ぬことを検討したことは幾度もありました。
面白いことにそういうことを考えるほど病む度に、どんどん筆者自身の性格みたいなものは明るくなっていくんですよね。
生への執着がないから、人にどう思われてもいいやって考えに切り替わって来ているのだと思います。
相対的に病んだ時の沈み具合も悪化しています。日中は明るいのに夜は毎日のように実家の夢を見て、また首を吊りたくなります。
人生に責任を持ちたくないので、今後の人生のことを考えるのも億劫です。所持金全部もって、海外の知らないところで身投げしたいという欲求が唐突に湧いてきます。
とまあ、こんな具合でどうにも大人になっても希死念慮が消えず、ぐるぐるふるぐる考えてしまうのです。
筆者が立ち直るには実家の悪夢を見なくなることに加え、自分の人生を自分のものだと認識するしかないです。
前者は精神病のようなものなので、時間の経過で解決を待つしかありません。
後者に関しては、なぜ死ぬのに生きるのか、人生の目標、死んだ後に残るものなど……それらを具体的に考えなければきっとずっと自分の人生を認識できません。
めんどくさいですね、正直そこまでして主体的に生きたくは無いです。
今わかりましたが、根底に生きるのがめんどくさいという感情が根付いているのがきっと1番良くないです。
けれど人間が社会を形成して集団で生活している以上、面倒くささはつきものです。
この考えを払拭できなければきっと考えは変わりません。そして社会が再構築されない限りはこの考えは変わりません。
あれ、純粋に生きるのに向いていないんじゃないかなという希死念慮がまた湧いてきました。
とりあえず今のところは、死ぬ理由もないから生きているという事にしておきます。
いやになったら外国で死にます、でっっけえ滝に飛び込みたい。
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