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【掌編小説】ワンタンブルース

 最後の晩餐は松仲飯店のワンタンにしようと決めたのは、俺が死ぬ決心を固める遥か前だった。

 20年前。その頃、大手小売店の青果部門で俺は朝から晩まで野菜とにらめっこしていた。若かったこともあり、キャベツや白菜が隙間なく詰まった段ボール箱を日に何十箱も運搬し、売り場に出せば大声で売り込みをするフィジカルな仕事を毎日こなしていた。
 年中ほぼ休みなく働いていた。シフト上で俺が休みでも、店は365日休みなく動き続けている。仕事にのめり込めばのめり込むほど、休日に家にいても売り場が心配になり、店に出向いてはパートに指示を出し働いていたのだ。
 仕事詰まりだったその頃の楽しみといえば、業務後に職場の向かいにひっそりと佇む町中華、松仲飯店でワンタンを肴に一杯やることだけだった。
 丸文字で『らーめん・餃子 松仲飯店』と書かれた赤いビニールはすっかり色褪せていて、「冷やし中華はじめました」とマジックで殴り書きされた模造紙が冬でも貼られている。入り口に置いてある錆び付いた電光看板には、「営業時間11時〜23時」と流れているが、いつ壊れたのか、下半分が光っていない。窓も油汚れで黄ばんでいるせいで中の様子もはっきりとは目視できず、確認できるのは常連客らしき人々の豪快な笑い声だけ。
 ひとりで入るには勇気がいる。それに不潔そうで、気にもなっていなかった店。
 そこに足を踏み入れたきっかけを与えてくれたのは、職場の先輩だった。仕事終わり、「ここのラーメンは絶品。酒も濃い」と連れて行ってくれたのだ。
 先輩の背中にくっついて店に入ると、煤けた壁に貼られた手書きのメニューの数々が見下ろしていた。カウンターとテーブル席が1つだけ、奥に座敷席が2つあった。黒いゴム製の床は油でベタついて、テーブルも椅子も傷だらけ。その全ては木製だった。入り口には無数の招き猫、座敷席の壁には『笑門来福』と書かれた大きなタコが飾ってある。油の匂いと床のベタつきさえなければ、蕎麦屋の居抜きとも取れるような内装だった。
 先輩は何度も通っていたらしく、慣れた様子で奥の座敷席に行くと、紹興酒とラーメンを2つづつ、そしてつまみにワンタンを1つ頼んだ。
 先に紹興酒とワンタンが席に届く。これが松仲飯店のワンタンとの出会いだった。
 平皿にこんもりと重なり合うワンタン。黒いソースがワンタンの滑らかなくぼみを辿って、皿にこぼれている。刻んだ白ねぎと胡椒をごま油で和えられたものが脇に添えられていて、それも艷やかに光っていた。
 先輩は世間話をしながら何の気なしにワンタンを口に運んで、紹興酒を煽る。食べ慣れているらしく、特に感想もなく仕事の愚痴をこぼしていた。
 それに続いて、俺もひと口運ぶ。
 驚いた。ワンタン麺ではなく、ワンタンが単品で置いてあるその理由を思い知らされた。
 つるりとした舌触りの皮は黒酢のソースを潤滑油に心地よく口内を撫でる。噛むと、中の肉餡が柔らかくも濃厚な旨味のスープを弾き出し、中華スパイスの香りを舞い上げた。見た目は繊細で可愛らしい小さなワンタンだが、口に入れると具材がぎっしり詰まっていたことがわかり嬉しくなる。
 これだけ肉餡が旨味を爆ぜているのに、何度噛んでも皮のしっとりさと黒酢ソースの爽やかさが餡を包み込むので、しつこさは全くなく、まろやかで華やかで品のある食味であり続けられている。
 そのまま食道に流れてしまうような喉越しを味わったあとには、ほんのりと黒酢の残り香だけが広がっているだけで、まるでスープを飲んだ時のような食後感だ。強烈な旨味が後に残らないから、すぐにまた次のワンタンが欲しくなるのだ。
 その後、ラーメンも届き「ひっくり返るくらい美味いから」と先輩が薦めてきたが、既にひっくり返されたワンタン体験のせいで、ラーメンの味が霞んだ。それだけじゃない。その日から松仲飯店のワンタンに囚われるように、他の何を食べても霞み、あのワンタンの味を求めてしまうようになったのである。
 それからというものの、職場から離れるまで、何百回と松仲飯店に通うようになり、ワンタンで喉を潤し続けた。
 昇進した日もワンタン、結婚をした日もワンタン、子供が生まれた日もワンタン、人生の節目節目にいつもワンタンがあった。
 しかし、実家のりんご農家を継いだその日から、松仲飯店のワンタンを食べることができなくなった。これが人生の崩壊への第一歩だったのだ。
 父が急逝し、俺が後を継ぐ他なくなった。小売店のマネージャーまで昇格しながらも辞めざる得ない状況は苦しかったが、不幸中の幸いか、青果部門に身を置いてきたこともあって農業への意欲は持てた。
 松仲飯店から約300kmも離れた実家でりんごを育てる。ワンタンには泣く泣く別れを告げ、俺はりんご農家として生きていく決心をした。
 しかし、急逝した父からの引き継ぎも何もなく、素人がりんごを無事育て上げられるほど農業は甘くはなかったのだ。
 1年間丸々通して手塩にかけたりんごなのに、明らかに父の育てたりんごよりも味が落ちていて、今までの顧客が一気に離れた。
 それでも今年はあの時の味を、と農業に粉骨砕身したが、記録的な大嵐がりんごをすべて駄目にしてしまった。
 俺はワンタンへの未練を埋めるかのように、紹興酒に溺れ、農業に対しての熱意は日に日に失速していった。人間性が堕落していくのを自分でもはっきりとわかるようになった頃には遅かった。妻と子供は置き手紙を残して、家を出ていってしまったのだ。
 大嵐が全てをあっという間に奪い去って行った。
 何を間違ったのか、いや全てが間違いだったのか、考えるのも億劫になり、自分が生きている意味がわからなくなってしまった。
 死のう。死んでしまおう。
 自然とその言葉が口から出たのは、きっと神様が正しい道は死であると示してくれたからなのだと思った。
 もう人生に未練はーーーーあった。
 松仲飯店のワンタンを食べずには死ねない。
 今の俺を生かしているのはその意思だけだ。

 農家になってからたった3年。
 松仲飯店の外装は様変わりしていた。赤いビニールが張ってあった位置には、店の幅いっぱいの一本木が掲げてあり、上下から4つのライトが煌々と『松仲飯店』と彫られた文字を照らしている。ラーメンのイラストがラッピングされた窓が壁の半分にまではめ込まれていて、見通しが良く窓際の席では家族連れの客が清潔感のあるテーブルでチゲ鍋を囲んでいる。カウンター席はないようだ。電光板では、『自家製叉焼 手打ち麺 自慢の松仲らーめん 780円』との文字が緩やかに流れ、最後に『大盛り無料』の文字が点滅した。そして、文字全てが正常に光っている。
 まるで別の店だ。失礼な話、繁盛している様子も、かつての松仲飯店とは印象が異なる。懐かしさを求めていたわけではないが、繁盛の喜びより、寂しさが勝った。
 入店すると、汚れ一つない黒いエプロンを着けた若い女性のアルバイトが席に案内してくれた。当時は老夫婦ふたりだけで店を回していたのに。
 光を反射するほど綺麗な床を歩いて、テーブル席へつく。見回すと、壁に貼られたメニューの紙もなくなっている。
 テーブルに立てられたメニューは全てパソコン作成で読みやすいものになっていて、そこからワンタンを探した。
 点心のページ。特製餃子、春巻き……ワンタン。よかった、無くなっていなかった。
 早速、ワンタンを注文する。ワンタンだけを頼む客を少し不審がっている様子だったが、すぐに持ってきてくれた。
 それは、記憶の中の松仲飯店のワンタンとは程遠いものだった。レンゲとともに置かれたのは、ボウル型の器に注がれたスープに浮くワンタン。別皿にポン酢が添えられた。
 恐る恐る、スープとともにワンタンをひと口すすってみる。
 野菜の甘みが感じられる優しい味。美味い。美味い、が……。
「あら、久しぶりねえ」
 振り返ると、アルバイトと同じエプロンを着けた松仲飯店の女将さんが立っていた。通い詰めた俺の顔を覚えていてくれたことに、涙が出そうになる。
「どうしてたのか気になってたのよ。りんご屋さんは順調?」
 女将さんの活発な口調だけが、かつての松仲飯店を思い出させた。
 松仲飯店にりんごを送ったことはなかった。あれだけ顧客からクレームが入った味のものを送るのが恥ずかしかったのだ。
 でも、心配はさせたくなかった。
「ええ、はい、まあ、ぼちぼち。お店、新しくなりましたね」
 俺はりんごから急いで話を逸らした。
「そうなのよ、びっくりしたでしょ。全部息子のアイデアなの。お客さんがりんご屋さんになってすぐ旦那が体壊しちゃってね。心は元気なんだけど、もう厨房に立つのは無理みたい」
「そうだったんですか。じゃあ今は料理も全部息子さんが」
「そうそう。店もそうだけど、レシピも全部見直しちゃってさ。旦那とはあんまり仲良くなかったから、『こんな古臭い味じゃ潰れるのも時間の問題』だとか言って、若者向けの味付けに変えちゃったの。古くからのお客さんは嫌がって来なくなっちゃった人も多いけど、お客さんは全然増えたのよ。息子の判断が正解だったみたい」
 確かに、ワンタンも見た目も味も全てが違っていた。おかずに合わせやすそうな、万人受けしそうな味。しかし、俺の記憶の味とは全く違う。
 それでも、客に受けたのは今食べた味の方だった。
「女将さんは、息子さんの味に納得してるんですか」
 妙な質問が口をついて出た。まるで、女将さんが納得していないようではないか。
 でも、俺は知りたかった。
「どうかねぇ。正直、旦那の味の方が私は好きなんだけどね」
「それでいいんですか」
「いいのよ。この歳になって初めて知ったもの、新しいお客さんがこんなにいること。こう、味が変わって広がった世界があった、っていうのかしら」
 世界、か。俺が見ていたりんごの世界はただ1つだけだった。その世界の水は合わなかったが、もしかしたら合う世界があるんじゃないか。
「今度、りんご持って来てもいいですか」
「あら、頂けるものは頂きたいわ」
 もちろん、新米農家が作るクオリティはまだまだ低い。ただ、父よりも若い自分が出せている味があるような気がした。世界を広げられるか、挑戦してみたい。
 今のワンタンの味も、愛しく感じた。
 女将さんが思い出したように言った。
「もしよければ、昔の感じでワンタン出す? ワンタンは変えられないけど、黒酢かけたりネギと合わせたりはすぐできるわよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。それ食べたら死んじゃいそうなんで」
「死んじゃう?」
 怪訝な表情をする女将さんに「冗談です」と笑って、ワンタンをすする。
 これはこれで、ホッとする美味しさがあると気付いた。



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【罪状】労働契約法違反

主人公が勝手に休日出勤しまくっていたため。

 

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