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高知県本山町を踏破<日本全市町村踏破(制覇)>

10月30日、前回の記事に書いたように、早明浦ダムの上で、土佐郡土佐町から、長岡郡本山町へと入った。ダム上は町境であるだけでなく、郡境でもある。

そこから、これも前回の記事に書いたように、一旦土佐町に戻り、さめうら湖畔のさめうら荘で食事・入浴を済ませた。そして再び、ダムの近くをかすめ、ダムのすぐ下の、吉野川を渡って、改めて本山町へ。

吉野川の橋の上からダムを望む。四国四県の全てに水を供給するダムだけあって、少し離れた場所からでも、その威容は十分に感じられる。

川を渡って、本山町の市街地へと進んで行くと、帰全山(きぜんざん)公園という名所がある事が分かったので、寄ってみた。

「公園」とは言うものの、真っ暗な山の中へ、細い道が続いている。いかにも遭難しそうなコースだが(苦笑)、道はしっかりしており、月も明るかったので、奥へと進んでみた。

暗闇の中、坂を登って行き、少し森が途切れたところに、月光差し込む神社が……!何とも神々しい。

森を抜けて、社殿の表側に回り込むと、明治大正期に見られる、近代西洋建築と和風建築が融合したような建物があった。学校のような雰囲気である。神社としてはかなり変わっている。

この建物は、「兼山廟」といい、江戸時代初期の土佐藩家老・野中兼山(のなかけんざん)を顕彰する霊廟で、兼山館という資料館も兼ねている。この建物の奥に、先程見た月光に照らされた社殿がある。

この社殿や兼山廟の正面に向かって、参道が伸びており、こちらは大きな太い道で、入口には鳥居もあった。こちらが帰全山公園の正面入口のようだ。

鳥居の脇には、野中兼山の像も立っている。

野中兼山は、藩政改革で目覚ましい成果を上げた。特に、新田開発や港湾設備建設、堰堤・用水路の築造などの土木事業によって、産業が発展し、藩の財政を大きく好転させたことで知られる。

一方で、年貢の取り立てに厳しく、贅沢の禁止などと相まって領民の不満を買い、下級武士の取り立てで上級武士の反発も買った事から、兼山を取り立てた藩主が隠居した後に失脚。土佐の西端、宿毛に幽閉され、まもなく死去、その後も男系が絶えるまで子孫も四十年に渡り幽閉され続けた。

しかし、その威徳を称える声は強く、土佐国内のあちこちで、兼山を祀る祠が建てられたという。ここ帰全山は、兼山が母を葬った地であり、やはり有志による祭祀が続いていた。

明治期、当時の本山村が土地を買い取って、公園となる。昭和十五年、兼山廟の建立が発起され、戦争中は中止されていたが、戦後しばらくして、ようやく建てられたと、案内にある。

母を葬った墓は、兼山廟の右奥あたりにある。兼山の母は、秋田姓であった為に、秋田夫人と称される。兼山は儒学者で、仏教に批判的であった為、儒教式の葬儀により、火葬せず土葬した。

兼山廟の左の奥の森には、赤い円筒に刻まれた「帰全山記」がある。兼山と交流があり、この文章は、江戸時代、儒学の一派である「崎門学(きもんがく)」や、神道の一流派・垂加神道の創始者でもある、山崎闇斎(やまざきあんさい)が、兼山に頼まれて、秋田夫人の葬儀に当たって書いたもの。

「帰全山」という山号は、闇斎が付けたものだ。儒教にあっては、父母葬儀の際に火葬をせず、その五体を損傷せずに「完全のまま大地に帰す」事が孝行である事に由来する。

「帰全山記」には、朱子が中国で仏式の葬儀を止めた事や、兼山が儒礼に忠実にあること、火葬は古代中国で蛮族の風習であったこと、日本でも仏教伝来以前の神道では火葬しなかった事などが書かれている。

ここにもあるように、仏教への批判から、儒教と神道とは近い立場にあり、事実、闇斎も儒家にして神道家であったのだが、こうした流れから、幕末の尊王思想が生まれて来る。

仏教的価値観からすると、天皇は仏よりも下位に置かれることになるが、儒教的価値観からすれば、天命を受けて天下を治める天子は地上における至高の存在であるし、神道も天照大神の勅によってその子孫の天皇が日本を統治する神話を持つので、儒教と神道とは近い価値観となるからだ。

そして、仏教に対する反発は明治維新後にピークを迎え、神道が国教化して国家神道となった時に、神仏分離や廃仏毀釈が起こった訳だが、そのような流れの淵源を、この「帰全山記」からも見る事が出来るだろう。

闇斎は、伊勢の神宮祠官・度会延佳(わたらいのぶよし)より神道の教えを受けており、伊勢との所縁は深く、伊勢の方でも闇斎を重視するところがった。私は大学卒業後、伊勢の神宮近く、皇學館で一年学んで神職資格を得たが、そこでもよく山崎闇斎の名は見聞きした。

しかし、日本各地を旅していて、山崎闇斎の名を見る事はまずなく、唐突にここ土佐の山中でその名が出て来て、驚きと共に、懐かしさを覚えた。

帰全山公園の近くから、吉野川の向こうに、本山町市街地を望む。帰全山は、吉野川が蛇行して、三方を川に囲まれた地である。古くは神社があったが、中世に遷宮したと案内にあった。

これで、高知県北部の未踏市町村は、全踏破した。残るは、南東部のみである。

高知県全34市町村のうち、32市町村踏破、残り2市町村、達成率94.1%。

サポート頂けると、全市町村踏破の旅行資金になります!また、旅先のどこかの神社で、サポート頂いた方に幸多からんことをお祈り致します!