見出し画像

鹿児島県徳之島町を踏破 その1<日本全市町村踏破(制覇)>

2018年2月10日。天城町にある徳之島子宝空港に降り立ち、犬の門蓋など見たのは前回の投稿の通り。その次に、島の東側へと進む。大島郡徳之島町だ。徳之島は三つの町に分かれている。北西が天城町、北東が徳之島町、南が伊仙町といった具合。

徳之島の東海岸。サンゴ礁と海の向こうに、奄美大島が見える。正確には、奄美大島の南に隣接する、与路島、請島、加計呂麻島などであろう。

県道80号を南下して行くと、花咲く神社の杜があったので参拝した。白嶺神社というらしい。

ヤシの木の立ち並ぶ参道が、南国的だ。

白嶺神社の名にふさわしい、白い社殿。

もしかしたら……と思って立寄ってみたら、やはり、ここは太古からの聖地であった。琉球時代には御嶽と呼ばれていたかもしれない(奄美群島に御嶽は存在しないそうだが)。薩摩藩政下にあった江戸時代には、観音堂になっている。明治の廃仏毀釈で観音堂は壊されたが、以後神社となり、菅原道真を祭神として今に至るとの事。崇徳上皇を彷彿とさせるような神社名だが、特に関係はなさそうだ。

ここは古くはティラ山と呼ばれる聖地で、東側には積石山という古い墓地、西側にアークントウという神迎えの聖地、南側に神浴川(かまみご)という小川、北側も墓地ということで、墓地や聖地に囲まれた、非常に宗教的な空間だということが、案内からも明らかだ。

社殿から麓を振り返る。白嶺神社は海岸からは少し離れた台地上にある。

境内では、ヤシの木の根元に緋寒桜が咲く。時は2月の中旬。実に南国的な風景だ。

すすきの向こうに、黒糖の工場が見える。

白嶺神社から、さらにもう少し南下したあたりが、徳之島最大の街・亀津である。ここは奄美大島と沖縄結ぶフェリーが寄港する港があり、ホテルなども多数ある。もっとも、ここ亀津出身の方にうかがった話に寄れば、現在市街地になっているところは、大半が埋立地なのだそうだ。

亀津にある徳洲会病院。徳洲会の創設者にして政治家でもある徳田虎雄氏は、徳之島の出身であり、「徳洲」とは徳之島を意味しているのだろう。徳田氏の名前に掛けたものでもあるのだろうが。なお、徳田氏は阪大を出て、最初の病院を関西で設立していることもあり、本部は関西にあるようだが、政治家として徳田氏が立候補しているのは徳之島を含む鹿児島県南部の選挙区であり、徳之島は十分に「お膝元」と言えるだろう。

その「本丸」と言える施設である為、立寄って外観を撮影した。色々と政治的問題が取り沙汰される徳洲会ではあるが、奄美群島に高度医療をもたらした功績は計り知れないだろう。徳洲会病院は、徳之島以外にも、奄美大島、喜界島、沖永良部島、与論島と、空港の存在する奄美群島の全ての島に存在している。

亀津の集落を過ぎ、さらに南下していたところ、神社らしい謎の宗教施設(?)を発見、参拝してみる。鳥居の扁額には「横綱之地」と書いてある。

よく見れば、闘牛で優勝した牛と、それを育てた闘牛士(という名前で合っているのだろうか)を顕彰する施設のようである。

社殿に当たる建物は「闘牛資料館」であったが、公開はしていないようだった。

闘牛士の福田喜和道氏は、旭日単光章という勲章も授かっているようだ。

闘牛資料館の隣の、石柱に龍が彫られた豪壮な建物は、福田家の墓所であった。

道の向かいには、福田家が営んでいるらしい企業があった。闘牛の際に牛を運ぶと思われる車も停まっている。

徳之島は闘牛の盛んな地である。隠岐もそうなのだが、離島と闘牛の関係については興味深いものがある。同じく闘牛の盛んな宇和島などは、島と付くものの離島ではないが、海岸ではあり、リアル式海岸となっていて、周囲は半島や離島が多数ある。こういった地形と闘牛は何か民俗的に関係あるのではなかろうか。

それにしても、徳田氏といい福田氏といい、徳之島は「土豪」の目立つ土地である。何だかバイタリティ溢れる島だ。全国平均の倍の出生率や、世界最高齢者の輩出なども、これらと無関係ではあるまい。

鹿児島県全43市町村のうち、38市町村踏破、残り5市町村、達成率88.4%。
九州・沖縄全274市町村のうち、254市町村踏破、残り20市町村、達成率92.7%。
日本全国1741市町村のうち、1714踏破、未踏破27、達成率98.4%。

サポート頂けると、全市町村踏破の旅行資金になります!また、旅先のどこかの神社で、サポート頂いた方に幸多からんことをお祈り致します!