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ことばの価値は。

私はいろんな本を同時進行で併読する派なのだけど、全く違うジャンルでも同じようなテーマにぶつかる瞬間があって、それがすごく面白いなぁと日々感じるところ。
ここ最近は特に、言葉について考えさせられることが多くあった。

ある哲学の本には、『言語は区別するために生まれた』とあって、最近の私の中で一番しっくりくる答えだなと思った。

りんごを認識するために『りんご』というラベルを作ったのではなく、「赤い何か」を他の存在と区別したいから『りんご』という名前を付けたのだと。
これは単純にラベルを作って貼り付けることと似ているようで、本質は少し違うのだという。

例えば、さまざまな姿形の石をひとまとめに『イシ』と私たちが呼ぶのは、石それぞれを区別する必要がないと判断したから。
石のひとつひとつに個性があったとしても、多くの人にとってそれはどうでもいいことだ。
けれど『りんご』や『みかん』など、私たちは「有機物の果物」としてそれぞれに名前を付けて言語化する。それは区別するに足る存在であったということ。

今ここに、私たち人間とは全く異なる食生活や価値観を持つ宇宙人がやってきたとして。有機物を口にしない彼らは、さまざまな果物を見てもいちいち区別することなく、「有機物がたくさん転がっているね」としか思わないはずだと。彼らにとってそれらは、私たちでいうところの石ころ同然の認識になり得る。

となれば、りんごという存在は、認識する必要のある者がいてはじめて存在するわけで、認識されなければ存在しないのと同じであろうというわけだ。

これらの解釈を読んで、言葉と価値観というのが綺麗にイコールで繋がった。
言葉によって、人それぞれの価値観というのが浮かび上がってくるというのは、そういうことか。

出会う人のなかで、意味の無さそうなものを趣味にしていたり、一見理解し難いものに熱を上げている人を見たとき、私はなんだか得体の知れないロマンみたいなものを、昔から感じずにはいられなかった。

それはきっと、社会や自分の中にある区別システムの境界線が揺るがされるからなんだろうと、今になって思う。

✳︎

歌人の穂村弘さんのエッセイや短歌が好きで、よく読んでいる。

『はじめての短歌』という本を読んでからは、ちょっと大げさだけれど、生きることや言葉を扱う上で大切にしたいなぁと思うことが明確になった。

短歌においては、非常に図式化していえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの。これが全部NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい。そのことを、短歌を作る人はみんな経験的によく知っているので、鯛焼きのばりみたいなものを、短歌に詠むわけです。

穂村弘/『はじめての短歌』
鯛焼きの縁のばりなど面白きもののある世を父は去りたり

/高野公彦

短歌を作るときには、チューニングをずらすことが大切だという穂村さん。
それは、社会とのチューニングなのだそうだ。

上記の歌が優れているのは、冒頭に「ほっかほかの鯛焼き」や、「霜降りのレアステーキ」などを持ってこなかったところ。

そういうの書きたくなっちゃうよね、ちょっとキラキラさせたくなっちゃう。
でもさ、そのキラキラって何?
誰のキラキラ?ってのを考えさせられる。

ほっかほかの鯛焼きより、霜降りのステーキより、鯛焼きのばりが価値を持つ世界。
なにそれ面白い。
この世の見方が変わってくる。

雨が降るにも、「しとしと」という表現が市民権を得ている不思議。
雨が「ポンポン」と降ったらダメなのか、と。

なんとなく素敵そうなことを詠もうとすると失敗する、と断言する穂村さん。
素敵そうなことは、社会的な価値を持っているからだろう。
そこから遠ざけることで、唯一無二の、自分だけの歌になる。

チューニングを合わせることが当たり前にある日常を前に、難しくもワクワクするような課題が突きつけられた感じがする。

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強烈な一首がある。

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

穂村弘/『シンジケート』

30年以上前に出版された、穂村さんのデビュー歌集につづられた中の一首だ。

当時の年齢や、この歌集に集録されている内容からするに、おそらく生活を共にしていた彼女とのできごとを詠ったものだろうと推測する。

雪がきれいだとも、彼女がどんな表情で外を見ているのかとも説明されていない。
ただ、体温計をくわえた彼女から発せられる「雪だ」が「ゆひら」と発音された。
それだけ。
それだけなのに、どうして心の中でこんなにも尾を引くのか。

ふたりの間に流れる甘美な時間だろうか。
可愛らしさもあり、妙な生っぽさもあり、幻想的でもある。
その一瞬の出来事が、わずかな言葉で、けれどその言葉以上の情景を色鮮やかに連れてくる。

強烈だ。あまりにも。
社会のチューニングに合わせるなら、この一瞬の出来事さえその色に染まってしまうだろう。
たとえば、窓にかかる吐息の白さや、外を銀色の世界などと表現してしまいそうだ。

でも、チューニングのずれた世界は「ゆひら」を連れてくる。
現実世界では何の意味もない「ゆひら」はきっと、わたしにとって一生忘れられない言葉だ。
それくらい、普段生きている社会の価値観というものは、思っている以上に狭いのかもしれない。
そんな価値が逆転してしまう世界に、私はどうしても惹きつけられてしまう。

世界というのは、人間だけが構成員じゃないということを、穂村さんは短歌で痛感するのだそうだ。
私もそう思う。
そもそも名前が付いている時点で、人間にとってすでに価値を見出されたものなのだ。
けれど、石ころひとつひとつや、雪の結晶それぞれに名前を与えなかった私たちの罪みたいなものが、こうやって短歌を通して浮かび上がってくる。

誰も言語化してこなかったものに息を吹き込んで、名前を与え続ける人たちのセンスに、この世の広さを知る。
目の前の世界が揺らぐ。
言葉の可能性と限界を同時に感じる。

今年の梅雨は、そんな世界を知れた季節だった。

✳︎

わたしのすきな歌。

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて
雨の最初のひとつぶを贈る起きぬけは声が全然でないおまえに
「とりかえしのつかないことがしたいね」と毛糸を玉に巻きつつ笑う
「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に
卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け


穂村弘/『シンジケート』より



ここまで読んでいただいたこと、とても嬉しく思います。