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『魔法少女まどか☆マギカ』

『魔法少女まどか☆マギカ』というTVアニメがありました。

wikipediaを見てみると、放映は2011年の秋。もう、7年になるんだ...

大変に評判になった作品で、ぼくも噂を聞いて鑑賞し、衝撃を受けた人間の戦列に加わることになりました。


ぼくが衝撃を受けたのは、『まどマギ』の世界観です。

wikipediaから引用してみると、

作品テーマについて
 本作の内容は、平凡な主人公が救世主に至るまでの成長物語として捉えられることがある。評論家の宮崎哲弥は、希望が絶望を生み出す本作の世界構造を仏教の因果に例えた上で、世界構造を熟知した功利主義者であるキュゥべえに対して「凡夫であるまどかが菩薩や如来への階梯を駆け上がっていく成長物語」であるとした。

(中略)

 本作では、「願い」も作品の重要な要素となっている。虚淵によれば、本作は少女の祈りが突っぱねられて無情に転がっていくだけの世界から、少女の祈りが肯定される魔法少女の世界に変わるまでの物語となっており、「少女の祈りを世界が良しとするか否か」がテーマとしてあるという。
 また、虚淵は、折衝というテーマが念頭にあるとも言っており、本作の結末は、諸悪の根源を打ちのめすものではなく、和解を描くものでもないかたちに落ち着かせたかったとしている。劇中におけるキュゥべえの契約についても、電気代を無料にすると言われて家の裏庭に原子炉を置かれるようなものであると説明し、そのような理不尽な契約はお断りであるとしつつも、原子力がそうであるように、魔法のような力にも様々な対価やリスクがあるが、それをただ否定するのも間違いであり、悲劇や犠牲を無駄にしないためにも折り合いをつける方法を探し続けるべきではないかと虚淵は述べている。


自分の言葉で書いてみます。

願いを抱えた少女たち。異星動物のキュゥべえ。少女は願いの成就と引き換えにキュゥべえと契約し、魔法少女へと変身する。

魔法少女は、人間を惑わす存在である魔女と人知れず戦いを繰り広げている。

魔法少女はソウルジェムというアイテムを持っている。ソウルジェムが濁りきってしまうと、魔法少女は魔女に転落してしまう。「転落」を防ぐには魔女を倒してグリーフシードというアイテムを手に入れ、ソウルジェムを浄化し続けなければならない。

魔法少女たちは「転落」の事実を知ると、魔女との戦闘の目的が変わってしまう。人間を魔女の誘惑から救うために戦っていたはずの魔法少女たちが、いつしか自身の生存のために戦うことになる...。


魔法少女たちがもつソウルジェムというアイテムは、〈しあわせ〉の象徴だと理解します。魂の宝石、ソウルジェム。

魔女が死んだときに落とすグリーフシード(悲嘆の種)は【成功】の象徴。

希望を胸に抱いた少女たちは、希望の成就と引き換えに魔女との戦闘の世界に転進していきます。〈しあわせ〉を守るために【成功】を手に入れなければならない戦いの世界。


魔法少女の戦いの世界は、宮崎哲弥さんが指摘するように、確かに因果の世界でしょう。因果の世界の中で人間的に成長をしていく物語――けれど、それは何も『まど☆マギ』だけに当てはまることではありません。どのような人間ドラマも、因果のなかでの成長あるいは堕落の物語だと言えてしまう。

因果はありとあらゆることに当てはまる。ゆえこそ、深遠な真理。

けれど、『まどマギ』がもたらした衝撃は、もっと身近なものだったと感じます。


『まどマギ』のラスボスは、“ワルプルギスの夜”という名称でした。

この名前には奇妙な印象を持ちます。敵とはいえ、キャラクターに“夜”といったような現象の名前がついている。“ワルプルギスの夜”はイベントですよね。ラスボスキャラがイベント?



ところで、ぼくが“ワルプルギスの夜”という言葉を初めて知ったのは、ゲーテの『ファウスト』ででした。

悪魔のメフィスト―フェレストと契約したファウストが悪魔の力で少女グレートヒェンをたぶらかす。メフィストの誘いでファウストは、魔女たちの集いであるワルプルギスの夜に参加し、帰ってくるとグレートヒェンは罪を犯して牢獄に捕まっている。ファウストとの間にできた子どもを池に投げ捨ててしまっていた。グレートヒェンが自害したところで、『ファウスト』第一部は終了になります。

続く第二部は、余りにもストーリー展開があまりにも荒唐無稽で、ゲーテが何を伝えたかったのか訳がわかりません。ただ、第二部の最初のエピソードをゲーテが書いた理由は伝わっている。

第二部第一幕は、ファウストとゲーテがとある帝国の宮廷を訪れるシーンです。帝国は財政難に陥って、偉い人たちが困っている。そこで道化に化けたメフィストが悪魔の知恵を出す。

帝国の領土に埋まっている(はず)の未発掘の宝を担保に、紙幣を発行すればいいのだ!

これは実際にあった話です。

ゲーテはジョン・ローが起こした「ミシシッピ会社事件」にゲーテは衝撃を受けて、一部で終了のつもりだったファウスト博士(とグレートヒェンの悲恋)の物語を、世界の不条理を描く物語へと昇格させた。

第二部には、ホムンクルスなんかも登場してきます。
ホムンクルスといえば『ハガレン』ですが...。


話を『まどマギ』に戻しつつ、本テキストの目的を記します。
本テキストも、「お金の話」。未来主義の話。
前回からの続きです。


 『まどマギ』
⇒“ワルプルギスの夜”
⇒『ファウスト』
⇒「ジョン・ローの事件」

が、ぼくの連想の流れ。

そして、この連想でできあがった視座から眺めてみると、「因果」という深遠な見え方がもっと具体的で卑俗なものに見えてくる。すなわち資本主義です。


希望少女たちが、魔法少女に転進するに当たって背負いこむものがある。
それは「負債」です。

「負債を支払うこと」は「魔女と戦うこと」です。
魔女との戦いで魔法少女は〈魂〉を消耗する。
消耗を回復するには【成功(悲嘆)】を得なければならない。

希望少女が契約を交わすキュゥべえは、別名“インキュベーター”といいます。

インキュベーターとは、生まれたばかりの乳児を育てる保育器の意。 そこから転じて、独自の創造性に富んだ技術、経営ノウハウ等を持つベンチャー企業の旺盛な起業家意欲に着目し、経営アドバイス、資金調達へのアクセス提供、企業運営に必要なビジネス・技術サービスへの橋渡しを行う団体、組織を指す。
インキュベーター(いんきゅべーたー)とは - コトバンク

あまりにもいろいろと一致するのです。

言葉はいろいろと「転じ」ます。
“インキュベーター”の意は、孵卵器から起業家育成目的団体へと転じ、『まどマギ』においては、希望少女との契約相手に転じている。

この「転じ方」が“ワルプルギスの夜”の「転じ方」と甚だ一致する(ように思える)。

また、この視座から見ると、“ワルプルギスの夜”とイベントの名が付けられたラスポスは、『まどマギ』制作の少し前に起きた社会現象を指すのではないかという想像も湧き起こる。

すなわち「リーマン・ショック」。


これは偶然の一致か?
それとも、脚本家の意図的なものか?



ジョン・ローこそは、未来主義を飛躍させた人物です。

コロンブスが嚆矢となり、続いてコンキスタドールたちが略奪した西欧文明の【成功】。それは一方で膨大な【悲嘆】を生みだすものであったが、西欧文明はキリスト教を盾に、彼ら自身はうまく【悲嘆】から免れることができた。

舞台はいずれもアメリカ「新」大陸。

この手の【成功体験】は、さらなる【成功】を要求する。


『サピエンス全史』からの引用をもう一度。

無知な人

 人類は少なくとも認知革命以降は、森羅万象を理解しようとしたきた。私たちの祖先は、膨大な時間と労力をつぎ込んで、自然界を支配する諸法則を発見しようとした。だが、近代科学は従来の知識の伝統のいっさいと3つの重大な形で異なる。

a 進んで無知を認める意志
 (略)
b 観察と数学の中心性
 (略)
c 新しい力の獲得
 近代科学は、説を生みだすだけでは満足しない。近代科学はそれらの説を使い、新しい力の獲得、特に新しいテクノロジーの開発を目指す。

cだけ、略さなかった理由は察していただけると思います。

近代科学と資本主義を両輪の輪とする未来主義は、

キュウべえ=インキュベーター=メフィストーフェレス

との契約によって転進することになる「競争の世界」。


――と書くと、あの「大審問官」を連想してしまいます。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場してくる寓話。



ちなみに『ピダハン』の著者は、かつてのキリスト教の「盾の効用」を未だ信じて行動したがいいが、見事に返り討ちに遭っています。

さらに言うと、「直接体験」に生きるピダハンたちには、未来主義なんて爆笑モノでしょうね、きっと。


続きます。

感じるままに。