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アヴァンギャルド

湯煙が空間を濁らせる中、手のひらに力を込め下へ押す。シャンプーがどぷっと白いぬるぬるしたものを吐き出した。シャンプーボトルのポンプは、女性型昆虫宇宙人の頭部を想起させる。薄く平べったい頭と、細く伸びた口。つるりとして硬い表面。ある用途のために限りなく洗練されたそのフォルムに、僕の空想は広がる。

一塊のシャンプーを受けた左の手のひらに右手を被せ、ねちょねちょと伸ばし、数滴の水を含ませ、泡立てる。そして泡の引かないうちに、自分の頭頂部へ持っていく。自らの頭を撫でるように手のひらでシャンプーを馴染ませ、髪がぬるぬるした海藻のようになったところで、地肌へ指を立てる。頭皮の汚れを掻き削るつもりで小刻みに指先を動かす。

もちろんのことだが、爪は立てない。あくまで指の腹で洗うのだ。
やがて泡が水と混ざり、額を流れ、眉をくすぐるようになる。僕は目を閉じ、うなじからもみあげ、額の生え際に至るまで入念に指を這わす。
自分の頭を洗い上げるまでに、どれくらいの時間がかかっているかはよく分からない。1分で終わっているかもしれないし、15分を要しているかもしれない。そもそも僕はあまり時間を気にしない質だから、余計に分からない。
したがって今も、過ぎた時間が1分なのか、はたまた15分なのかはきわめて不明瞭だ。流石に1時間はかかっていないだろう、くらいのことしか分からない。

シャワーの栓を手探りで捻る。ジョワアアアという音とともに、細いパスタのような水が僕の頭を満遍なく、かつ無慈悲に濡らす。泡が首筋を這い、肩をくすぐり、背中を駆け下りていくのを感じる。
髪にシャンプーが残っていないことを確認する。濡れた顔を拭い、手早く髪の水気を払うと、僕は目を開けた。

僕の瞳が目の前のものを捉えて0.5秒経ってから、僕の背筋はびくりと強張った。きっと身体は瞬間的にそれを認識していたのだろう。ただ、僕の脳が理解するのに半秒を要した。
髪を洗い終え、視界に飛び込んできたのは、幽霊だった。それも目と鼻の先にいたのだ。

黒く長い前髪が顔に落ちかかり、瞳は深く深く暗い。肌は青白く生気がなく、輪郭はぼんやりとしていた。そして口元には表情がなかった。小さな口が僅かに開き、今にも呪いの言葉を呟きそうである。
その姿を見た刹那、恐怖で全身の肌が粟立った。幽霊の澱んだ瞳に射すくめられ、目を離すことが出来なかった。うなじに冷たく鋭い錐を突き当てられているようだった。
しかしそんな恐れの感情は、次の瞬間には燃え上がるような怒りに変わった。それは幽霊の目の奥に、どこか「してやったり」という優越の色が見えたからだ。
これを感じるやいなや、僕の内に烈火の如き怒りが湧きあがった。此奴はしたり顔で僕を怖がらせようとしているな。そんな不愉快な企みを持った奴に怖がらされてたまるものか。
僕はそんなふうに感じた。
もともと妄想は得意なのだ。

僕は怒気を込めた口調でゆっくりと告げた。

「自分で勝手に消えるか、俺に殴られて消されるか、どっちがいい?」

「選べ」と心の中で付け足した。

僕の口元には溢れる怒りを抑えようと、微かな震えすらあった。

幽霊はなにも言わなかった。だから僕は腰のバネを思いっきり使って、真正面から幽霊の顔へ拳を突き立てた。
幽霊は右手の拳が顔に触れると同時に霧散し、消えた。しかしながら幽霊に透かされ勢いの収まらない僕の右手は、そのまま浴室の鏡に向かった。
鏡が割れる。そう思った。
鏡と共に砕け、裂ける僕の右手のイメージが頭をよぎった。暗い血が艶やかしく滴っていた。

*
*
*

鏡は割れなかった。鏡は波ひとつ立たない水面のように僕の右手の拳を飲み込み、その勢いで僕は鏡の裏側へと落ちていった。

鏡の裏側は、そのまま地獄と繋がっていた。だけど僕は死んではいない。地獄の役人がそう言っていたのだから間違いない。にもかかわらず僕は地獄で働いている。永遠に埋まらぬ穴を埋め続けさせられているのだ。

地獄の現場管理職員にはこう言われた。

「お前みたいな奴がいると、夏が涼しくなくなるだろう。素直に怖がればいいものを。疲れすぎだ。人間、怖いものにすら腹が立ち始めたら、疲弊している証拠だ。少しここで休め。心配することはない、地獄とお前の世界とじゃ時の流れは違う。安心してここで働きな」

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