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芥川龍之介「鼻」を読む-内供を毀損する自意識と傍観者の利己心

「鼻」は「羅生門」より3ヶ月後の大正5年2月「新思潮」に発表され、
夏目漱石が激賞したことでもよく知られている作品です。

「鼻」にも「『羅生門』を読む③」で行ったあらすじからのアプローチをやってみたいと思います。ただ、今回はその「応用編」になります。それはあらすじを前半と後半の2つに分ける必要がでてくるからです。もちろん、1つでもできますが、あえてそうしないのは、あらすじを「あらすじ」として終わらせるのではなく、作品を理解する視点として使いたいからです。

▢前半のあらすじ

では、前半から。
まず、「誰」が「どうした」です。こうなります。

  禅智内供は鼻を短くした。

12字です。「内供」とすれば10字ですが、大事なのは要素ですからそこまで字数に執着する必要はありません。さて、ここで早速大事な項目が出てきました。「内供」と「鼻」です。

〈「内供」について〉
  大辞林には「宮中の内道場に奉仕し,天皇の御斎会の読師などの勤めを
  する僧。高徳の僧10人を選び任ずる」とあります。ですからこの禅
  智は超エリートのインテリ僧ということになります。本文でも博識と勉
  強家の一面が垣間見えます。
〈「鼻」について〉
  禅智の鼻は五、六寸(約15 ~ 18 cm)の長さで、「細長い腸詰めのよう
  なもの」が顔の真ん中にぶら下がっている、とあります。

尊敬されるべき位置にある者が人から笑われる容貌の持ち主であるという設定です。この設定はいろいろと起こりそうです。だから物語を展開させるエンジン(動力部)になります。さすが、芥川ですね。古典のなからいいモデルを探してきます。

次は「行動要因」、ここでは内供が鼻を短くした理由を加えます。

● 内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだ
  のである。
●   この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。 

「鼻」

この2つの文から鼻によって傷つけられる自尊心の回復が禅智内供の日々の命題であったことが分かります。したがって、第2段階のあらすじは次のようになります。

  禅智内供は、自尊心の毀損回復のために鼻を短くした。

25字です。ここででてくる「自尊心」が作品の本質を掘り起こすキーワードです。

次は「いつ」「どこで」を付加します。

  平安時代の池の尾に住む禅智内供は自尊心の毀損回復のために鼻を短く
  した。

35字です。この作品の場合、時代と場所は重要ではありません。大事なのは人物設定と行動理由です。したがって起点は第2段階のあらすじになります。

▢自意識によって毀損される内供の「自尊心」

問いをつくります。

 「禅智内供は自尊心の毀損回復のために鼻を短くした」それはなぜか?

これが作品の本質へ向かう問いです。まず「鼻」と「自尊心の毀損」の関係を考えましょう。

五十歳を越えた内供は、沙弥しゃみの昔から、内道場供奉の職にのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来の浄土を渇仰すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた。

「鼻」

禅智は確かに自分の醜い鼻を気に病んではいます。しかし問題は「自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だった」ということです。禅智は日本でベスト10に選ばれるほどの高僧です。そこに彼のプライド、自尊心があります。この自尊心はたかが容貌(ここでは「鼻」)で揺らいじゃならないのです。そう分かっていてもそれを気にしてしまう。そこに人間の「弱さ」があるんですね。語り手は「愛すべき内供」という言い方をしてますが、それはそういう内供への親近感の表明だとぼくには思えます。

「鼻」という「見て呉れ」を気にする自分がいて、それを人に知られることを懼れる。そしてそうであればあるほど、人々が自分の鼻に注目し哂っているように思えてくる。彼の高僧としての自尊心はズタズタです。原因はこの醜悪な「鼻」だ!「愛すべき内供」はそう思うんです。人間喜劇ですね。

 ここが大事なのでもう少し追求します。

「鼻」自体ががいやなのではなく、「鼻を気にする卑俗な自分」が自分の中にいるのが許せないのです。これ何?そう自意識ですよね。「高僧としての自尊心」が「鼻を気にする卑俗な自分」を気にして否定する「自意識」をつくりだした、ということです。そしてもうひとつ、この「自意識」は「鼻を気にする卑俗な自分」を「人々」に見抜かれることを懼れる「自意識」をつくりだして、彼の「高僧としての自尊心」を攻撃してきます。自意識のツープラトン攻撃です。

このように自意識が周縁をひろげるのことによって内供は自分を見失うんです。面白いですね。「内供」という地位は本来彼の「鼻を高くする」ものなんですが、皮肉なことに彼の顔の真ん中に醜く長い鼻がぶら下がっているために人の嘲笑を受けることに怯える並み以下の老人に転落です。内供が鼻を短くしたのは、鼻が嫌だったのではありません。彼の自尊心が作り出した自意識が彼に自己を見失わせたからです。だから、彼は修行という高尚なやり方ではなく、きわめて「俗」な物理的手段、京の医師伝授の「長い鼻を短くする法」という荒療治、つまり美容整形外科手術に踏み切ったわけです。

とはいえ、人々の内供への冷笑的態度はすべてが内供の妄想ではありません。厳然として内供にはやっかいな外部が存在します。「傍観者の利己心」です。これが後半の重要項目です。後半は少し迂回路をとりますので、ちょと予告だけしておきます。

▢後半のあらすじ

さて、ここから後半です。
後半はあらすじをとるのにてこずります。
「禅智内供は鼻がもとにもどった。」・・・どうかなぁ。鼻は自然にもどったのだから、この文は因果律を含んでいません。じゃあ、「鼻が元に戻った禅智内供ははればれとした気分になった。」少し長いですが、なんとかやれそうですね。やってみましょうか。それはなぜか?

――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。

「鼻」

内供のこのつぶやきをふまえると、次のようになります。

  鼻が元に戻った禅智内供は誰にも哂われないと思ったのではればれとし
  た気分になった。

第2段階のあらすじ文が一応成立しました。40字です。さて、ここから作品理解に迫ってみます。「なぜ内供は誰にも哂われないとはればれした気分になるのか」・・・問いになりません。その奥がない、ということです。では、問いをかえてこれはどうでしょう?「なぜ内供は鼻が元にもどると哂われないと思ったのか」・・・答えは「鼻を短くしたら人々が哂ったから」・・・これは理由ではなくて裏返しになっただけです。今は昼だ。どうして?夜じゃないから。国会でよくやられているナンセンス答弁と同じです。

ただ、実はここに鍵があります。問題は「人々」です。本文では「僧俗」とでてきます。ですから、ここで言う「人々」は僧侶と俗人の両方を含んでいるとみてください。大事なのは「鼻を短くしたら人々が哂った」ということです。禅智内供の期待は見事に裏切られたわけですね。これは「なぜ?」が成立します。やっと結論が出ました。長くつきあわせてすいません。

後半のあらすじの第1段階「誰」が「どうした」は

  人々は鼻を短くした禅智内供をわらった。

です。では次に後半の第2段階のあらすじです。行動要因を加えます。

――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥しいれて見たいような気にさえなるそうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。

「鼻」

ここが後半の核心で、語り手の説明の部分です。ほとんど言っちゃってますね。

  人々は鼻を短くした禅智内供をもう一度不幸に陥れたいという
  ある敵意のために
哂った。

40字です。

▢人々が内供を不幸にしたい理由

ではここから作品理解にはいります。問いを短くします。

  どうして人々は禅智内供を不幸に陥れたいのか?

内供は鼻が長いときの哂われ方との違いに気づき「前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて」と思います。「つけつけ」は「づけづけ」です。つまり、人々は内供に哂っていることが分かってもかまわない、ひどい場合には哂っているのをこれみよがしに見せつけているふしもあります。じゃあ、なぜですか。それは内供に元のように蔑まれる存在に戻ってほしいからです。

もし内供があの鼻でなかったら、人々にとって内供は立派な高僧として自分たちを見おろす存在だったわけです。逆に言えば自分たちは内供に見下される不幸な状態にあることになります。それが、あの鼻によって内供、本来尊ばれる高位の内供を憐れんだりバカにしたりできたわけですから、「羅生門」の言葉を借りると「得意と満足」が得られるわけです。ですから、その鼻が普通になると、自分たちの「得意と満足」が奪われ、奪った者に対する敵意が湧いてきます。つまり、自分たちの「得意と満足」を失いたくないという「利己心」がそこに発動しているということです。自分たちの利己心ゆえに禅智内供を不幸に陥れようとして哂うのです。

▢傍観者の利己主義

「傍観者の利己主義」という言葉が「鼻」を解くメインキーワードです。禅智内供の幸不幸は「人々」にとって客観的に何の関係もありません。内供が鼻について相談でも持ちかけない限りはそっとしとけばいいんですよ。本人も気にしたくないんですからなおのことです。それなのに憐れんだり、哂ったりします。そして、それができなくなると、また元に戻ってほしいと願い、戻らないと思えば敵意を抱き、露骨におとしめようとする。無責任な他者の利己主義とはそいうものです。芥川はそこをえぐっているんですね。

ただ、今書いたことこは、レントゲン写真みたいなものです。実際「人々」の態度はそんなにあからさまではありません。あくまでも「視線」や「仕草」においてなのです。なにせ相手は高徳の僧です。そしてまた、「ある敵意」の「ある」には含みがあります。「ある敵意」には利己心が潜んでいますが、それを彼らは意識していません。利己心は識閾下で「人々」の「内供」への敵意を作り出しています。自覚できないから彼らには反省もありません。やっかいなしろものですね。

▢元の鼻に戻った内供について

こう読んでくると、禅智内供が対峙すべきは「鼻」ではなく、自分の「自意識」であり、「人々」の利己心だったということになります。はたして内供はこのことに気づいたのでしょうか。

内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。

「鼻」

作者は微妙な書き方をしています。人々の自分の態度に人間の下劣な何かを感じたというところまでで、それが利己心によるものとまでは気づいていない、つまり感覚段階の気づきにとどまている、もう一押しだね禅智内供くん、という感じだと思います。

▢内供において自意識と傍観者の利己心はどうなったか

――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁やいた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

「鼻」

「鼻」の最後の部分で、元の長い鼻に戻ったことを確認した「あけ方」の内供の心境が描かれています。「誰も哂うものはないにちがいない」・・・どうでしょうか。あの「傍観者の利己主義」はそう簡単に引き下がりますか?語り手は「人間の心には」という普遍的な言い方をしていました。だから変わりません。またなにがしかの蔑みをやるでしょうね。きっと。

ただ、内供は「傍観者の利己主義」を「理由を知らないながらも、何となく不快に思った」とある点は大事です。この「なんとなく不快」に思うという感覚は人々の態度の相対化につながるように思います。そもそも「人々」は「傍観者」ですから振り回される必要はないのです。だからあいつらは「傍観者」にすぎないと認識することができればこの問題は解消できます。

「鼻」が復元したことは、いいかえれば自然治癒です。なにから?もちろん「自意識」の病から。もちろんまた罹患するとは思いますよ。だけど免疫はついたのではないでしょうか。ですから、前よりは少し超然としていられるかもしれません。「長い鼻」を「秋風にぶらつかせ」ている内供にはそんな「自意識」からの解放も予感させるそこはかとないゆとりがなきにしもあらずです。

▢処方箋としての「羅生門」と「鼻」        

この自分の頭の象徴のやうな書斎で、書いた小説は、「羅生門」と「鼻」との二つだった。自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く愉快な小説が書きたかつた。そこでとりあへず先まず、今昔物語から材料を取って、この二つの短篇を書いた。    

芥川龍之介「 あの頃の自分の事」大正8年

旧態依然とした倫理道徳を蹴飛ばして自分のやりたいようにやるんだ、という願望を「書こう」とした「羅生門」。そして自分を囚人化する自意識と「傍観者の利己心」からの解放を託した「鼻」は芥川にとってなるほど「愉快な小説」になっています。この2作品は芥川が自ら出した失恋鬱の処方箋だったといえるのではないでしょうか。

それにしてもこの「禅智内供」の人物造形はよくできています。芥川にとっても会心の出来ではなかったのかなあ。そういう意味でも彼にとって「愛すべき内供」だったかも。

折角なので、前半と後半を合わせた2段階のあらすじをまとめの意味でしめしておきます。

  禅智内供は鼻を短くしたが、人々に哂われた。(21字)

  禅智内供は、自尊心の毀損回復のために鼻を短くしたが、もう一度不幸
  に陥れたいというある敵意を持つ人々に哂われた。(55字)

▢「鼻」と「山月記」

「羅生門」は構成や話の筋はとても明快です。それに対して「鼻」は人間の心理の描き方が多層的で一筋縄ではいかない面があります。「羅生門」は組み立て模型で、「鼻」は丁寧に彫り込んだレリーフのような感じがします。特に禅智内供の造形は絶品です。平安時代の鼻コンプレックスの高僧に現代人の苦悩を作り出す自意識を彫り込んだわけですからね。芥川、この時25歳。何回か生まれ変わってますね。この人。

この、禅智内供の「自意識」の発掘はこの時代としてはかなり先駆的です。漱石が「羅生門」よりこっちの方を誉めたのも分かるような気がします。それに、自尊心が自意識を生み出し、それがブーメランのように折り返して自己を毀損するという現代的な心理の円環は、26年後に中島敦の「山月記」で「臆病な自尊心」「尊大なる羞恥心」として見事に言語化されます。そういえば、「傍観者の利己主義」の「傍観者」ですが、「山月記」にはその逆の「傍観者」ではない人物、李徴の唯一の友「袁傪」が登場しますね。この2作品は小説の作りはかなりちがいますが、地続きであるように思いますが、どうでしょうか。

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