覚書:パートI

決め付けない

記録だけでも残しておきたい。

私なりに生きてきたことで、何かのお役に立つようなこと。

「別に読まれなくてもいい」とは考えていない。

四十数年生きてきて、今21世紀。

小中高大学から就職と、ごく一般的な道筋。

10年ちょっと働いて若干横道にそれ、1年弱の英国留学後、2年半弱の契約ベースだったけど一旦仕事に復帰。

その後、約1年浪人して、ポルトガルでドクターコースへ。

これが思いの外時間がかかって約6年。

うすうす感じていたこととはいえ、アカデミアへの道は厳しく、ジョインしきれず。

結果的に放浪状態。

そう。あくまでも結果的に。

とはいえ。

アカデミックへの道を探りつつ、明らかになってきたこともあり。ただの巡り合わせというだけでなく、ある種”必然”なのかな?と思えるところもある。

生まれつき、「文句言い」なんだなと。

カッコつけた言い方をすれば、「現状に満足することがない」。

その程度が、ちょっと常軌を逸している。つまり、フツ—じゃあない。

「現状に満足しない」というのはあくまでも大人っぽい言い方で、単に「気分が全く安定しない」ということでもある。

またまたキレイ事風に変換させてもらうと、「そういう時々刻々変化する気分に対して正直」とも言える。”正直”というのは、変化しているものは変化している。いい方に変化している場合もあれば、悪い方に変化している場合もある。それはなるべく誤魔化さない。そういうこと。

「常軌を逸している」というのは謙遜でも誇張でもない。

人間の感情なんて本来起伏だらけだ。それは誰も皆程度の差こそあれ同じ。マシンのようにプログラムされた通りにしか作動しないようなものではない。それが私たちの気持ちとかムード。

「フツ—」というのは、そうした継続的に起こる起伏でも、断続的にしか認識したり、気にしたりしないということ。

私も所詮断続的にしか気にはしない、というか、できないのだけれど、断続の刻みが異様に細かい。

あまりに細かいと、どういうことが起こるか?

気になるのは自分自身の気持ちの起伏だけじゃない。

分からないはずの他人様の気持ちの起伏までが気になるのです。

21世紀の現在、コミュ障などと呼ばれがち/自称しがちな人たちは、この両者のコーディネーションがツライ方の人たち。

正常/異常のお話ではないのです。

「分からないはずの他人様の気持ちの起伏」と言いましたが、これ、本当に分かり得るか/分かり得ないかは、誰も断言はできません。「他人様の気持ちなんて分からないんだから気にするなよ」なんて言われても、気になる方の人には何の役にも立たない。

気持ちにしても何にしても「気になるか/ならないか」は程度の問題。運次第。

気にならない時は気にならないし、気になる時は気になる。気になる程度だって、平気な場合もあれば、やたらしんどく感じることもある。

大事なのは、とんでもない妄想へと暴走しないこと。

「とんでもない妄想」というのは、まあ、「暴力に発展」とかですかね。これは避けた方がいい。

「自分自身のことが気になると、それに伴って他人様のことまで気になるメカニズム」ですか?

自分自身なんて個人の所有物ではなくて、関係性の中で形作られていくものだから。(自己3面説ご参照)

「自分自身」というのは抽象的だけども、「気持ち」にしたって「感情」にしたって同じこと。

断続的にしか気にできないというのは、個々の持たされた能力のせいではなくて、「気付き」なるもの、他者との関わり合いによって呼び起こされるものだから。

では、気になる/ならないの断続が細かいってことはどういうことでしょうか?

そう。

他者に対する意識が相当高いということです。登場してくる度に気になる。細かい動きが気になる。知らんぷりができる(ある程度マネジメントできる)としても、それ以前のこと。

全く悪いことじゃあないのです。

マイナスな方に思い込みがきつくなり過ぎたり、それが積み重なりまくって、暴力沙汰なんかにはならないようにした方がいい。

結局、お付き合いの仕方の問題なんですね。自分自身と、であろうが、他人様と、であろうが。

「他人は自分自身の(何かの)写し鏡」というのは、セオリーとしては結構有名。

ただ、この「セオリーの次元」ぐらい(セオリーを「なるほど」と納得していられるぐらいの悠長さ)だと、日々の実感として、事ごとに、「自他の境界が案外曖昧だな」と感じられるほどには、自分自身のものにせよ、他人様のものにせよ、気持ちの起伏について、細かいインターバルで気にさせられて困っている、という可能性は低い。カンタンに言えば、適当に気付かなかったり、気付いていても忘れたふりができて、本当にそのまま忘れられたりする。そういうフツ—な人。

フツ—な人を詰(なじ)るわけではない。ただ、「フツ—だフツ—だ」とエラそうにはして欲しくない。

それが私のどうしても言っておきたいことのうちの一つ。

フツ—な人はフツ—を自慢したり、フツ—であることを武器に生き抜いていこうとするのではなくて、よりやさしくなれなければね。特に「フツ—でない」と思っている人たちに対してね。だって”フツ—グループ”のメンバーだって言えるだけで相当生き易いわけでしょ?実際のところ。やっぱり有利な方はそれなりにやさしくならないと、バランス悪いと思うのです。

ただし、やさしくなるなんてねぇ。フツ—ってのは、そこまで細かくはなれないってことだから。現実問題としてどうすりゃいいの?となると相当難しい。

私がここまで色々と思案して、落ち着いているところとしては、個々人というものを、あまりシンプルに一色で染め上げてしまわない方がいい、ということがあります。例えばフツ—にしたってそう。

フツ—に細かいことなんて忘れ去る人だって、一生通して常にそうか?と問えば、必ずしもそうとはいえない。ケース・バイ・ケース。短い人生、単調な人生だって様々予測不可能なことはいくらでも起きる。予測不可能なことが起きれば、それに応じて予測不可能な対応だってできてしまうだろう。

そうした決めつけない態度というものが大事かな?と。

それをちょっとずつでも広め、より多くの人が実践できるようになればいいのかなー、と。

そのためには、何事につけ、「細けーよ!」ってことでも、一つ一つ論理的に処理していこうという”態度”がとっても大事。

勿論私たちの考え方、感じ方ってのは比喩的類推が本来の持ち味なので、「一つ一つロジカルに」というのは現実には難しい。

ここでも完璧は目指さない。

ただ、ロジカルに向かった方がいいんだよなー、ということを折々に思い出せるような、そんな材料を提供できれば御の字なのではないか?

そんなことを考えています。

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