アートをジャンル間の関係で語ると

本質を見落としてしまう気がする。

『Japan: A Re-interpretation』 by Patrick Smith

例えば、文学を語り、その影響がどのように建築に反映されている/いないか?とか。

著者の主眼は日本人が自分自身を見つめることができるかどうか?にある。アートに限らず、政治や労働(雇用環境や勤労に向かう態度・慣行など)についても分析されている。

アートを持ち出した(9章)のは、日本人の内面で何がうごめいているのか?をより深く語るため。

文学に限らず、明治の近代化開始以降、特に西洋文化との関係で、日本の文化がどのように変遷し、そこにアーティスト達のどのような態度が反映されているのか?基本的に、うまく融合できていないと考え、その原因を、自分自身=日本を見つめることができていないことに求めている。

日本を分析する以上、何が日本らしい特徴か?を語るのは必然なのかもしれない。でも、日本らしさって何なんだろう?そんなものが一切存在しないのが日本らしさなのかもしれない。というような疑いは持たないのだろうか?

文学と建築は同じくアートと分類できても、本質的にやることが違う。文学は読まれる。建築は広い意味で居住される(とあるビルにオフィスや店舗が”居住する”など)。前者は実用に供されるとはいえない。間接的には影響は与えても。後者は装飾であるとか建築物が表す形(デザイン)自体の意味もあるけれど、何らかの用途に実際に用いられる。

文学は言葉がメディア。建築は物的資材。つまり、可能なデザインはほぼ無数でも、言葉ほど「何をいかようにも書いてみること」はできない。文学の手法は、作家の描きたい世界を、かなり自由に書いてみることができるほどフレキシブルで、建物のように最低一定期間は建物としてそこに建っておいてもらわないとお話になんない、ってことはない。

明治以降、主に小説という手法が取り入れられて、文学の主流を形成してきたけど、どうしても日本的伝統vs.西洋の二項対立を想定した上での葛藤、戦前vs.戦後の葛藤、過去と現在との分断などが観察され、そういう対立項を用いないとすれば、一体日本人とか日本の文化とかいうものはどうやって表現可能か?という難題に向かえていない。

著者は、(本著作執筆当時(1997年頃)の)新しい世代の作家(村上春樹と吉本ばななが例示されている)の作風を、驚くほど完全に過去との繋がりを否定している、と特徴付けて、日本そのものを見つめるなんてことは一切考えてておらず、専ら小説の中の空想世界の記述の細やかさやストーリーの軽やかさなどに注力しているようだ、と見ている。

返す刀で、建築においては、現在生きているものの視点で過去(明治以降の和洋の間の葛藤も含め)を見据えたうえで、これを作品上に具現化する試みが見られ始めている、と見る。

確かにそのようなことが一部建築家に見られていたのかもしれないけれど、こと、文学の作風で、過去との繋がりを完全に無視する、という方法が、即、日本のあるがままを見ようとしない、と結論付けられる点には違和感がある。何故なら、過去をあからさまに無視する記述を連ねることで、読者にその違和感を生じさせ、もって過去への想いを惹起させる、ということは不可能ではないからだ。文学というのは書く人あってのものかもしれないけれど、それ以上に読む人の想像力に依る部分がかなり大きいのだ。

アートは、現代風ビジネスに取り込まれて以降、必ずしも人間の本源的活動とは呼べなくなっている。では、建築であろうと文学であろうと、名を成した(売れた)アーティストの作風や考え方を追跡するだけでは、文化を語ることなどできない。たとえとある作家が、人々の日常生活の機微・細部描写にこそ文化が表れる、と見て作品を作っていたとしても、「それが売れる(売れない)」文化というものが作用してくる。

文化(この著書の場合は日本の文化)をよりよく知るためには、アーティストといった一部の人ではなく、その他の大多数の人々の日常的に行っていることを見ていくしかないのではないか?「売れる(売れない)」文化があるなら、人々(消費する側の大多数)から見て、何故そうなるのか?きっと同じような文学作品(商品)が同じように売れたとしても、文化が異なれば、それが何故売れるのか?の事情は異なるはず。日本で村上春樹が売れるのと、海外でHaruki Murakamiが売れるのとでは全く異なる事情があるはずなのだ。。。(私はしかし、「売れる」という共通点の方に興味を引かれるが。。。エンターテインメント・カルチャー??)


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