人の話を聞く力

TEDかなんかでConversationの能力というか、面白い会話ができる能力、みたいなのを見たことがある(TEDでした)。そこでは「聞く力」の大切さが強調されていた。

( ´_ゝ`)フーン。

白い人たちの文化だからな。。。

カラクリは簡単。

会話というと「話す」と「聞く」という二つの立場があって、まぁ個人差はあっても、会話を上手く…とかいうことを考えれば、まずは「話す」の方に注意が向きやすい。

ってところに。

実は「聞く」の方がこんなに大事♪って言う。

それだけ。

話している方も聞いている方もお互いにご満足と。。。

なんて中身空っぽなカルチャーなんだろう。人の世の中なんでもゲーム感覚ですか。。。

待てよ?

なんでそんな簡単なことなのに、日々楽しい会話ができているとはいえないんだろう?ボク??

とかってちょっとぐらい自分自身のこととして疑問に思わないのかな?

あー!そっかー!

カンタンなことだったんだー!

大事なこと気付かせてもらっちゃったなー♪♪

で済む感覚って。。。

ノー天気。ってゆーか。。。「だ、大丈夫ですか???お頭にきちんと詰まっているべきもの詰まってらっしゃいます??」って訊きたくなる。

会話の中で、相手方が「本当にこれ。アナタにとって大事よ!」って伝えてくれていることが分からない。

言葉の意味は理解できているはずなのに、どうしても自分の都合の方に合わせて解釈してしまう。

つまりは会話の中で一番大事な話を聞けていない

そんなことはいくらでも起こり得る。

「聞く力」ってそんなに簡単に身に付くものではない。

どちらかというと、成長するにつれ、勝手な解釈の技の方がどんどんと育ってしまって、「聞く力」の方は二度と取り戻せない、なんて事態にも。。。それが分からないからおそろしい。

自己3面説でいかないと。。。

「話す力」に比べたら、誰にでもなんとかできそうじゃん??ってな安易な理解でいるなら尚更キケン。

「あー。オレ。こんなに聞いてるのになー。ほんっとつまらないよねー。あの人の話って。。。聞き役ってツライわー。」みたいな”つまらない話”を自らもしておいて、それにも気付かない。。。という負の連鎖が待ち受けている。

「聞く力」を論じ、考えるに当たって、決定的な何かが抜け落ちている。

ヒントになるのはやはり「自己3面説」。

「頭で考えるな。体全体で、本能で動け!」ということは結構頻繁に聞かれることば。

これも実践に移すのは相当難しい。

何故か?

問題は「理性vs.直観」ではなくて、どっちにより多くを頼るにしても、「自分で自分のケツは拭く」(自己3面説の三番目)という覚悟ができるかどうか?のお話だから。

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これが最もホンモノっぽいと自分自身で信じている(やすい)自分。

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覚悟ですよ。覚悟。。。

そんな安易にできやしませんがな。。。(覚悟なんてしなくたってお尻ぐらいは毎日自分で拭けるでしょうが。。。”安易な覚悟”って理屈としてヘン。)

でも、私たちの日常は待ってはくれない。

モノゴトは私たちの事情には構わず流れていく。

都度「覚悟を決めるべきじゃあないのか?」なんて迷っていたら、結局覚悟なんてできないうちに一生が終わってしまうだろう。

「何が大事なのか?」が分からないわけではない。

だからこそ感じるジレンマ。

「理性が本能を邪魔する」なんて感覚も珍しいことではないだろう。

では。

ということで、「理性とは何か?」「本能的行動とは何か?」を定義しようとアプローチするのが現代の合理主義。

定義さえ明確になれば、私たちは正しい理解を得ることができ、もって、正しい行動も合理的に選択され、社会は改善に向かうだろう。

一般的に、これを「定義に責任を丸投げしている」とは理解しない。

理性と本能がケンカして、どちらを選ぶべきかはケース・バイ・ケースだとしても、正確な定義がなければそもそも選択もできないではないか。

一理ある。

正確な定義なるものも大切だ。

とはいえ。繰り返しになるけれど、モノゴトの流れは、私たちのそうした事情(例:厳密に分析したい)に合わせてはくれない。

成り行き任せにもしない、理性偏重にもならないためには、やはりどこかで”覚悟めいた踏ん切り”を、個々の責任においてつけられる方がいい。

理屈で考えれば明らかなとおり、そうしたどっちが正解だか予め判定することは不可能な状況について、現実の成り行き(推移)であれ結果であれ、「あ。それ。関わったの私ですね。」って回収できるのは現に実体をもって生きている私たち一人一人しかない。

「あっはー!『話す』方じゃなくて『聞く』の方だったかー!大事なのはー!」って嬉しがるのもまあいいだろう。

「『聞く』って一体どういうことだろう?」と真面目に分析するのもさらにいい。

が。

「相手にとっても自分自身にとっても真実(どちらの立場からもそれぞれ本当に大切なこととして伝え合いたいこと)」って会話やその他の関わり合いの中で発見し得る。いや。そこでしか感じ得ないのかもしれない。

「聞く」ってなにも相手の意見を否定しないとか、尊重するとかいうことだけじゃない。最低限のマナーとしてとても大切だけど。

「常に何か驚かされること、好奇心をそそられること、面白いことがあるに違いないと心の準備をする」なんてのも、いいことだけど、聞く方の「聞いてあげる」感が強くなり過ぎる。

「話す」と「聞く」にしても、自他の区別にしても、はっきりさせ過ぎるのよね。境界線。

私たちにとっての真実って実は境界がはっきりしないところに感じられやすいのではないか?

そんな心的態度(境界のはっきりしないエリアに何かを聞こうとする態度、境界の存在は認めた上で敢えて向こう側へ身を置いてみるような想像力)を身に付ける必要があるように思える。

そうしないと、特に耳に痛いような真実なんてさ、感づけばまだいい方で、まさか他人の方が自分の真実を的確に指摘し得るなんて想定していないと、全く存在が無視されもする。他者の言葉に存在する自分自身にまつわる真実に感づいたとしたって、耳に痛いだけに意味を多少なりともモディファイして痛みを和らげようとしてしまうじゃない。言ってくる方の真意(例:本当に相手方のためと思って痛いことと分かってても言う)なんて考えないでさ。

「実体をもって現実を生きている私たちの存在を忘れない」ということ。これは絶対に外せない。本当に「聞く力」を身に付けたいと思うなら。

「お互いの存在の仕方に対する尊重」という言い方もしたけれど、何かいいこと聞いちゃったと思うなら、そういう嬉しい感覚を現に感じている自分という存在に目を向けよう。「既に知っている」とか「知り得てよかった」とかいうことだけじゃなく。余裕で実践できていることを「いいことよ」って言われて喜んでいる場合でも、できていなくて悩んでいたことに対していいヒントを与えられたと喜んでいる場合でも、どっちにしても、知り得たことをあたかも自分自身の所有物のように扱わないために。

できている方は「できていない状態ってどんなだろう?」

できていない方は「現実のこととして、できるようになるってどういう違いがある?」

そんな感じ。

自他を同じ”ポテンシャルのフィールド”に置くイメージ。

そうしないのは切り捨て、勝ち抜けの思想。

「いいものは各自学べばいいじゃん。こうしてみんなアクセスできるんだからさ。」

知識はモノじゃない。

「知識はモノだ」という考えだと、持てる者と持たざる者とを分け隔てるだけだ。

だからわざわざ私は、知識は私たち人間のこの世に存在する仕方、というようなまどろっこしい定義を提唱しようとしている。

知識は基本的に私たちをつなぐ。私たちの実体(ボディ)とそれが持つポテンシャルを駆動させることによって。

知識をモノのように理解するとしても、せいぜい媒介物。表には出ない。私たちが「これでしょ?」と指差すものは、謂わば”知識のキャリアー”だ。物理のメタファーを用いるなら、とある運動をあらしめているエネルギーのようなものだ。

人生は誰も一回きり。

それが分かっていても。

自他の境界を微妙に跨いだり、すり抜けたりする、各々にとっての真実に気付く、気付かせてもらう、という経験がなければ、「自分自身の人生を生きる」ってのは、中々覚悟をもって取り組めないものなのだ。

「自分自身の面倒は自分自身で責任もって見るということ」と、「真実に近付くために必要となる自他の不可分性(境界の曖昧さ)への気付き」との微妙で意外な関連性について、暇があったら思い出してみてもらいたい。

「聞けてるかどうか?」自信もって答えるのはそれからでも遅くはない。

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Hakushi Hamaoka

動的平衡の社会学

私たちの社会を構成する関係性は全て非対称で非平衡。「社会を分析する」とは、動的平衡のプロセスを精緻に観察することから始められるべき。
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