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『月の心臓』


「月の裏側ってどうなっていると思う?」


澄んだ青色のハーブティーに金箔を浮かべながら、私は問いかける。


「そうだな。きっと月の中には綺麗な宝石がたくさん詰まっていて、宇宙に行った人達がせっせとそれを掘り出しているんだ。だけどそれは裏側でだけ行われていて、僕たちからは見えない」


「その宝石たちは、一体どこへ行くんだろう。富裕層たちの間でだけ取引されていて、私たちにはまわってこないかもね」


「そうだったら悲しいけど、もし僕たちでも手に入れられるくらい安価で取引されて、月が崩れ落ちてしまうくらい掘削されてしまったらもっと悲しいかな」


彼の長い睫毛に月明かりが差して、青い瞳に夜の帳が落ちる。彼はティーカップを覗き込んで、お、と小さな声を上げる。先程までの憂いはさざ波のようにさっと引いて、代わりにぱっと歓喜の花が咲く。ころころと表情を変えて、そういうところは年相応に子どもだ。


そわそわしている彼を横目に、月明かりだけを頼りにカップに星空を注ぎ込む。窓の外を見上げるとまるで、輝くドレスを纏った女神様が地上に降り経とうとしているかのように真っ直ぐに、光の道がこちらへと伸びてきている。窓から外に足をかけたら、このまま月まで歩いていけそうだ。なんてそんなことを空想していると、彼が私に歌いかけてくる。


「いま来むと、言いしばかりに長月の?」


「有明の月を待ちいでつるかな、ね。夜が明けてなお空に浮かぶ月を見たことのある人は少ないかもしれないけれど、だからこそこの歌の悲しみが伝わってくる。辛い恋をさえしなければ、見ることもなかっただろうものだから」


「そうだね。月がなくなったらこれから生まれる子供たちには、この意味もさっぱりわからなくなってしまうんだね。月が照れば夜が来たということだし、月が満ちれば日が経ったということだし、そんな些細な描写が物語には溢れてるっていうのに」


確かにそうだ。月がなくなれば次の世代にとって、月に関する描写を含む作品はもれなく「古典」になるだろう。月とはどんなもので、この描写がどんな意味を持つのか、学ばなくては理解できなくなるのだ。


「今この瞬間に見えるこの月が、各地の神話に語り継がれる月の女神の司るそれで、天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月で、月と六ペンスのその月だってことが何より価値のあることなんだよ」


真剣な眼差しで語る彼の宝石のような瞳は、ころころと移り変わる彼の表情に合わせて時に翳り、時にきらめき、常に移ろい続けている。もしも取り出してずっと手元に置いておくとしたら、今のこの輝きは永久に失われるだろう。


「宝石は確かに美しいけれど、どんなに貧しい人でもどこに住んでいる人でも、誰の記憶の中にもその美しさが存在しているということには到底敵わない。それは視覚だけじゃない、目の見えない人の心にだって、誰もが口にする「今夜は月が綺麗だよ」という言葉が月を存在させているはずなんだ。そうやって宝石のように美しい言葉が無数に生み出されて、どこまでも広がり続けてきた」


彼の豊かな金髪が柔らかに光を灯して、月のある夜はいつもほんのりと明るい。月を知らない人がこれを聞いたら笑うだろうか。月は全てを明るく照らす太陽とは違うし、炎を灯した蝋燭の揺らめく明かりとも違うのだ。


「ねえ、月の体積は219億km³もあるんだって。もしこれを世界の人口78億人で等しく分け合ったら、ひとりあたり2km³をもらってもまだ余るくらい。月の心臓を抉り出して、宝物を皆で山分けするんだ」


笑っているのにどうしてか笑っていないように思えるようなそんな顔で、彼は私に語りかける。もしも彼の両の瞳を抉り出して美しい宝石を二つ渡される代わりに、血の通わない彼の冷たい身体を抱き寄せることになれば私もそんな顔をする。


「そしたら今度は、その宝石を使った芸術がたくさん生まれるのかな」


「どうかな。少なくとも月を知る僕たちは、その宝石を見つめながらこんな言葉を紡ぐ。こんなものは少しも美しくない、こんなものはいらなかった、って。月を知らない人間は、その手の中の宝石が美しければ美しいほど、それが忌まわしいもののように思えてくる」


「それなら、少しは悪くないかもね」


「えっ。どうして」


鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたと思えば、すぐさま不満げな表情を見せる彼。信じられないとでも言いたげだ。


「苦しみが人に筆を執らせるように、足りないものを求めて人は文化を作り、技術を得る。いろいろなものが失われる代わりに、月が失われなかったら生まれなかった多くのものがこの世に生み落とされることになる。悲しみも世界を輝かせるのよ」


「そうかなあ。そんなの悪趣味だよ」


「そうかもね。でも悲しいことも楽しめた方が、幸せじゃない?」


「そうかな、僕は悲しいことは悲しみたいよ」


彼はどうやら、私と彼は相反する考えを持っていると感じたみたいだけど、私はそうは思わない。私の言う「悲しいことを楽しむ」というのは、悲しいことを悲しいこととして味わいつくすことだからだ。だけどふたつは全く同じではない。光と影が表裏一体でありながら、違う性質を持つのと同じことだ。たとえ本質が同じであっても、違う言葉で表現されたならそれは違うものなのだ。私はそれが愛おしい。


「小夜さんの髪は月のない夜みたいだね」


「じゃああなたがいる時は、満月の夜ね」


「僕、満月?自分じゃ見えないから気付かなかった」


私だって、あなたに言われて初めてそんな風に思ったのよ。自分のことはなかなか、自分では分からないものだ。違うものと触れて、形を確かめあって、初めて自分がここに居ることを確認するのだ。その度にぶつかって擦れて、時には形が変わってしまうこともあるけど、そんなことだって私は愛しいと思う。悲しいことと愛しいことが、同時に存在していたっていい。


「あなたが死んだら、私が詩を書いてあげるね」


「え、僕、小夜さんより先に死にたくないよ。でも、詩は書いてほしい。どうしよう」


「ふふふ。なるようになればいいのよ」


「うーん。それもそうかな」


納得のいかないような、そうでもないような顔で彼は首を少し傾ける。彼の髪がキラリとして、私は目が離せなくなる。前に切ってあげた時より随分伸びた。


「そろそろ髪も切らないとね」


「今度は切りすぎないでよ」


「でも先生には褒められたんでしょう?」


「先生のさっぱりしてるねはダサいって意味だもん」


「ふふふ。たしかにそれもそうね」


空のカップが二人分、ティーポットには残り一杯分。半分ずつ分け合って、飲み干したころにはそろそろ寝る時間だ。彼の希望で、ベッドルームには小さなプラネタリウムを用意した。思いがけず二人暮らしになってお金は随分かかるけれど、案外それも悪くない。


「それじゃ、おやすみなさい」


「うん、おやすみ」


私は彼の柔らかな髪に指を通し、隣のベッドへ潜り込む。この幸せを失うのが怖いとも、怖いことが幸せだとも思う。


当たり前のようにようにそこにある灯火が、ある日突然消えてしまったら。月が消えたら、私は悲しい。もうそこにはないと分かっていても何度も見上げるだろう。そして本当にないのだと、気付く度に打ちひしがれるだろう。だけど月のない夜は星が輝ける。私はこれまで月がくれたものを、大事に握りしめて歩いていくだけだ。


もし私が死んでも、あなたはこれからも歩いていかなくてはならない。誰もが私を忘れても、これから歩いていくあなたに何かを残せるのならそれだけで十分だ。それが悲しいことでも、嬉しいことでもいいし、そのどちらもだったらもっといい。宝石みたいに変わらないものかもしれないし、なにかの種みたいに育ち続けるものかもしれない。できるだけ色んな種類のものを、できるだけたくさんあなたにあげたい。私が素敵だと思ったもの全てをあなたにあげたい。どんなに硬くてゴツゴツしていて、全部がバラバラな形をしていても、このたくさんの原石をあなたならきっと、美しく磨き上げると信じているから。


『月の心臓』

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こちらの作品のタイトルは、Instagramにて3月10日に行った公募にてお客様にいただいたタイトルです。月に心臓があるとしたらきっとこんなふうに美しい宝石なんだろうと共感し、こちらのタイトルにさせていただきました。SF風にもメルヘンチックにも書けるこのタイトルを、敢えて現実世界で生きる人の話として書きたいと考え、公開後も何度も手を加えて、なんとか満足のいく作品に仕上がりました。



数量限定予約販売・2022年3月28日まで 





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