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あなたに濁点を打つ 


  あなたは女のあとをつけていた。狭い路地。髪の長い女の尻を見ながら歩いていた。
 ふいに、数メール先の女が足を止めて、振り返った。あなたと女は、向かい合った。
 女が何か言ったが、あなたは聞き取れない。逆光で、女の表情も分からない。
 女の背後からの光があなたの目を刺す。あなたの視界は白くなる。白いもやのようなもので埋めつくされる。
 白濁はくだくした世界に小さな黒い点があった。その点に、あなたは目を凝らす。
 どこからか、音が聞こえた。
 ぴっ、ぴっ、ぴっ。
 音は、だんだんと早く大きくなってくる。
 ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴぴぴぴぴぴぴぴ。
 
 アラーム音で、夢が叩き切られた。
 あなたの身体と心臓は、びくっと跳ねた。恐る恐る目を開く。
 いつもの寝室。厚いカーテンの隙間から、朝の光が真っ直ぐに差し込んでいる。
 あなたはベッド横に置いていたスマホに手を伸ばし、アラーム音を止めた。
「今日は、十二月十一日、月曜日」
 声に出して言う。そして、スマホのカレンダーで日付を確認した。正解。自分の脳に不安を感じ始めてからのあなたの習慣。
 とりあえず今日は大丈夫だ、と安堵の息を吐くと、あなたは掛け布団をそっとめくって立ち上がった。
 パジャマのままリビングに入る。
「お父さん、おはよう」
 テーブルで笑い合っていた妻と娘が声を合わせて言った。
「おはよう」
 あなたの低くかすれた声。
 あなたがテーブルにつくと、妻はキッチンに行き、コーヒー、パン、サラダとゆで卵を運んでくる。目の前に喫茶店のモーニングセットのようなものが置かれる。
 結婚当初は和食だった。いつの頃からかこのメニューが定番化した。変わるのは、サラダの野菜がレタスかキャベツか、パンが食パンかデニッシュか、ぐらいだ。
 あなたは、別に食べたくもないゆで卵の殻をむく。
「お母さん、あの白いバッグ、今日貸して」
「いいけど、汚さないでね」
 女二人がサラダをつつきながら、バッグのブランドについて語り始める。ヴィトン、グッチ、セリーヌなどという高価なカタカナが、あなたの横をかすめる。
 リビングの壁に備え付けられた大型TVでは、遠い国の戦争、そこで犠牲になった小さな子供たちのニュース映像が流れている。
「砲撃で多数の子供たちの命が」
「お母さん、私さぁ、バイト代たまったら、プラダのバッグ買おうと思ってるんだけど」
 アナウンサーの声に、娘の声が重なる。
 テーブルの右側にいる今年大学を卒業予定の娘の横顔を、あなたはコーヒーを飲みながら見る。
 娘が小さかったころは、お父さんにそっくりですね、と言われるたびに嬉しかった。その顔の中に、まだ自分に似ているところが残っているのかを探す。
 薄い唇は確かに自分と同じだ。唇。薄い唇を凝視する。最近恋人ができたと言っていたな、と思ったとたんにコーヒーが口の中でざらついた感じがしたので、慌てて目を逸らす。
 逸らした視線の先に、息子が現れた。パジャマのズボンに手を突っ込んで、尻を掻きながらリビングに入ってくる。
「月曜日かぁ、だるっ」
 おはようの代わりの意味不明な言葉に、あなたは眉間にしわを寄せた。
 妻が素早く立ち上がって、息子のために朝食の準備を始める。
 妻の息子への献身的な愛は、そそくさ、そそくさと音がしそうだな、とあなたは思う。
「父さん、俺、第一志望やべぇかも」
 高校三年の息子が椅子の上でふんぞり返ったような姿勢で言った。
「無理して大学に行くことはない」
 あなたが新聞を開きながら言うと、息子はチッっと舌打ちをする。
「無理してでも行かないと、ね?」
 妻がコーヒーを運びながら、息子に言う。「ね?」が優しすぎるとあなたは思い、息子のように舌打ちしそうになったが、堪えた。

 数週間前に辞表を提出してきた、二十代後半の社員のことを、あなたは思う。
 佐藤。日本で一番多い苗字そのままの、たぶん日本で一番多い雰囲気を持つ目立たない男。
 彼は一流と言われる大学を卒業して入社してきた。入社後三年間、あなたの部下だったが、これと言って印象に残る仕事はしなかった。
 一流大学を出てあれだったのだから、大学など別に行かなくても良いのでは、と最近のあなたは考える。
 辞表を受け取ったあと、会議室に佐藤を呼んで、退社の理由を訊いた。
「仕事が自分には合わなかったというか、面白くなかったので」
 彼は無表情でそう言い、頭を深く下げた。
「面白い仕事なんて、あるのか?」
 あなたが無言で佐藤のつむじの渦を見つめていると、同席していたあなたの同期がそう訊いた。
「あると思います。あります」
 佐藤は硬い表情のまま、はっきりと答えた。
 同期があなたの顔を問うように見る。
「俺も面白かったよ。最初だけね」
 あなたは佐藤の顔を見ながら答えた。
 
 マンションの角部屋の自宅は、東と南から贅沢なほど光が差し込む。妻や娘と息子の顔の上にも朝日が当たり眩しい。
 あと数年、この息子が大学を卒業したら自分の親としての役目もほぼ終わりだなと、あなたは考える。
 朝日が差し込む部屋で、家族揃っての朝食。
幸せの典型的な風景、なのか? という問いが頭に浮かんだとたん、あなたの視界は白いもやのようなもので埋め尽くされる。光が白くなり、全てがかすんでみえる。
 白濁はくだくしたリビングの風景を、あなたは顔をしかめて眺めた。
 あぁ、最近目の調子がおかしい、と自分のまぶたを押さえる。まだ五十代なのに。いや、もう五十代だから、脳や目に何らかの異常が出てもおかしくはないのか、とあなたは思う。
「どうかしたの?」
 妻の質問に、あなたは黙って首を振った。
 
 食事が終わると身支度をして、いってらっしゃいという声に右手を軽く上げ、あなたは自宅を出た。
 マンションの二十三階からエレベーターで降り、会う住民ひとりひとりに「おはようございます」と挨拶し、エントランスから大通りに出る。
 駅まで続く通りの両側には、マンションが並んでいる。そのマンションから、次々と人が出てくる。あなたと同じようなスーツを着た男性もいれば、小さな子供の手を引く若い女性もいる。
 あなたは履き慣れたはずの靴の親指と小指が当たる箇所に違和感を感じる。足の先を意識し始めると、今度は着慣れたはずのスーツの脇の部分が引っ張られているような嫌な感じがする。
 自宅マンションから最寄り駅までの、いつもの道。パン屋の前で行列を作っている人々に、なぜか今日はいらつく。何度も通った居酒屋のシャッターの閉店の貼り紙にも、シャッター前の吐瀉物の乾いた跡にもいらつく。
 全てに違和感を感じながら、あなたはいつものように背筋を伸ばして歩く。高層マンションの立ち並ぶ道。

「俺、出世したら、あのマンションの最上階の部屋を買う」
 三十二年前、あなたは地方の大学を出て、東京の企業に就職した。
 数年間、埼玉との県境、駅から十五分歩く家賃の安いアパート住んだ。あなたは、山手線内の高層マンションに憧れた。
 沙織とは、大学二年の春から付き合った。同じ高校と大学に通った同級生。
「私はマンションは嫌よ。一戸建ての庭で犬を飼いたいけん」
 沙織は、あなたに会うために新幹線に乗ってよく東京に来てくれた。あなたが帰省すること、あなたの方から沙織に会いに行くことは滅多になかったのに。
「いつか結婚したいね」
 そんなことを語りあって数ヶ月で、沙織が東京に来る回数が減った。あなたが電話をかける回数も減った。
「仕事が忙しいけんね」
 お互いそう言った。
 遠距離で聞く方言や、自分と同じ故郷の匂いが、安心感から微かなあなどりに変わったときに、別れた。あっけない別れだった。お互い、違う方向にある輝く何かに気を取られていたから、あっけなかった。輝いていた何か。
 別れてから何年後だったろう。大学のサークル仲間が地元で開催した同窓会に出席した。そこで、沙織と再会した。
 沙織は少し太って、穏やかな雰囲気の三十代になっていた。
「結婚したの? 子供は?」
「した。二人いる。沙織は?」
「私も。同じく二人」
 顔を見合わせて笑った。
 それから元恋人同士だけに通じる会話をした。昔二人で行った場所、観た映画。沙織は庭付きの一戸建てで犬を飼っていると笑いながら言った。
「そこのお二人、やけぼっくりに火がついちゃうよ」
 あなたたちが付き合っていたことはサークル仲間全員が知っていたことだから、そんな風にからかわれた。あなたたちは、からかわれることが嬉しかった。カラフルな色のついた思い出。若返ったような気がした。
 その夜、あなたと沙織は、ホテルに行って身体を重ねた。
「お互い、歳、とっちゃったね」
「あぁ」
「元気でね」
「沙織も、元気で」
 ホテルの前で、あっけなく別れた。二人とも一晩で老けてしまったような疲れた顔をしていた。
 あの朝の沙織の背中を、今、あなたは歩きながら思い出す。

 駅に人が吸い込まれていく。あなたは、その吸引きゅういんされる人ごみに混じり、いつものように改札を通る。
 列を作る人の後に並ぶ。朝だというのに、ホームには肉を焼くような匂いが漂っている。東京の駅のホームはどこも食べ物の匂いがする、とあなたは思う。がつがつと生きている匂い。
 電車がホームに滑るように入ってくる。ゲートが開き、人々がうつむいたまま、電車に乗り込む。あなたは運良く空いていた席を見つけ、座り、ほっと息をついた。
 膝の上に黒い革の鞄を置いて、スマートフォンを触る乗客たちを眺める。うつむいた人々の髪の色はさまざまで、丸まった背と肩は同じ。
 電車が走り出す。会社員を学生を、大人や子供を乗せて、電車は走る。
 
 また、辞表を提出した佐藤のことを考えた。
「転職先は決まっているのか?」
 あなたの問いに、佐藤はうなずいた。
「紙芝居をやるんです」
「紙芝居?」
「そうです、幼稚園や公園、老人ホームのようなどこかの施設で、紙芝居をやるんです」
 そして、それまで見せなかった笑みを、口元から全身に広げた。
 
 電車のブレーキ音が響いた。つんのめるようにして停車する。
 スマホを覗いていた乗客全員が、一斉に顔を上げた。
「前を走っていた車両の接触事故により、しばらく運転を見合わせます。安全が確認され次第、運転を再開いたします。情報が入り次第、ご案内いたします。お客さまにはご迷惑をおかけしますことを、お詫び申し上げます」
 車内アナウンスが流れた。
 誰かの舌打ちの音が聞こえた。
「接触って、人間と、かな?」
「えっ、やだ、飛び込み?」
「遅刻しちゃうね」
 あなたの向かいで吊り革を掴んで立っていた若い女性二人が、顔を見合わせて囁き合った。
「ところで、今日のランチどこにする」
「新しくできたところはどう? イタリアンで美味しいらしいわよ」
 若い女性の興味は、ランチのメニューに移動する。
 車内の人々は、また一斉にスマホの画面と向き合う。遅刻の理由を誰かに連絡しているのか、もしくは飛び込みだと不確定な情報をSNSに書き込んでいるのか。あなたは、ぼんやりとそんな人々を眺める。
 そして、あなたは、向かいの席に座っている長い髪の女に気がついた。ぼってりした唇の女。あなたの視線は女の顔の上で止まった。目が合った。
 姿勢良く真っ直ぐ前を向いて座る女は、三十代、いや四十代かも知れない。女の年齢は最近特に分からなくなった、とあなたは思う。
 吊革を握って立つ乗客たちの隙間から見える長い髪の女。女もあなたを見た。
 ときどき、さりげなく視線をずらしながらも、あなたは女を見つめ続けた。黒いタイトスカートと白いブラウス、教師のようでもありスナックのママのようでもある、とあなたは思う。
 女が脚を組み替えた。ちらりとスカートの奥が見えた。
 スカートの奥から、あなたの中学時代が顔を出した。

「信也の友達? 可愛い顔してるわね」
 中学時代の友達、信也の家。彼の母親は煙草を吸いながら、あなたに言った。
 リビングの窓が開け放してあり、外からの蝉の声が暑苦しく、信也の母親のノースリーブのシャツから見える汗ばんだ肌が薄汚く見えた。
「彼女、いるの?」
 母親があなたに訊いた。
 あなたの代わりに、信也が「うるさいな。ほっといてくれ」と応えた。信也に父親がいないということをあなたは知っていた。
「暑いわね」
 母親はそう言って畳の上から立ち上がった。その拍子にスカートの裾が捲れ、ちらりと奥が見えた。太ももと黒い下着。
 あなたが目を逸らす前に、信也の母親は笑った。
「ほんとに、可愛いわね」
 そう言いながら、けたけたと笑った。あなたは、自分の顔が赤く歪んでいるのを自覚した。
 別の部屋から男が出てきた。
「おまえら、こづかいやるから遊んで来い」
 あなたとあなたの友達は、数千円をもらって家を出た。玄関を出るとき、信也の母親の甘えるような笑い声が聞こえた。
 あなたは、信也の母親とあの男が、二人きりの家の中ですることを想像した。何をするか、ちょうど分かりはじめた頃だった。
 信也とゲームセンターに行って、ジュースを飲みながら、ゲームをした。あの男からもらったお金はそこで全て使った。
「くそ。くそ。死ね」
 信也はその頃に流行っていたシューティングゲームをしながら、ずっとそう言っていた。
 
「只今、線路の安全が確認されました。十五分の遅れとなりましたが、発車いたします。ご迷惑をおかけいたしましたことを、深くお詫び申し上げます」
 アナウンスがあなたを中学時代から電車の中に引き戻した。
 電車はゴトンと大きく身震いをするように一度揺れて、発車する。何事もなかったように、動き始めた。
 あなたは再び、吊革を握って立つ乗客たちの隙間から、向かいの席の髪の長い女を見た。
 女は他の乗客のようにスマートフォンを触ったりしない。文庫本を読みもしない。ただ前を、あなたを見つめて座っている。無表情。
 あなたも何もせず、ただ座ったまま、女を見つめる。そして、頭の中で忙しく映像を創る。
 目の前の女が、食事をする、鏡の前で化粧をする、映画を観ながら泣く。さまざまな場面で見せる女の表情を想像する。
 つんと顎をあげて座る女は自分の容姿に自信がありそうだ、ぼってりとした唇からは、始終、生意気な言葉があふれてきそうだ、とあなたは思う。
 駅に着くごとに、乗客が入れ替わった。吊革を持つ人々が動く。向かいの席の女は動かない。動かないまま、女はあなたを見つめる。あなたも女を見つめる。
 整った顔が人形のようにもみえる。人形のような冷たい目があなたを見る。
 電車がカーブを通行するたびに、車窓から差し込む朝の光の角度が変わった。正面から光が顔に当たると、あなたの視界はまた白くにごる。あなたは何度かまばたきをした。
 白濁はくだくした景色の中で、向かいに座る女は服を脱いだ。全てを脱いだ。裸体の女は座ったまま、あなたを見る。
 ふと、若い頃を思い出し、あなたは心の中で笑った。あの頃は電車の中でこのような性的な空想に始終ふけっていた。何十年経っても、やっていることは同じだと、可笑しいような虚しいような気持ちになる
 それでもあなたは、まだ女の裸体を見る。服を脱いだ女は、目つきが変わった。力が抜けた目をしている。
 そう、女は、昼間は冷たく感じるような物言いや目つきをするのに、夜になると言葉も身体も甘い匂いを放つ。
 その違いをあなたは楽しみながら、女の髪を撫でている。
「本当のお前は、どっちなんだ?」
 どこからか声が聞こえた。
 あなたが想像の中で言ったのかもしれない。

「あんたの友達の信也くん、どんな子? あの子のお母さん、評判悪いんよ。いろいろな男の人と住んでるとか、嫌な噂があるんよ。学校の行事とかにも参加せんけんね。あんた、友達から影響受けないように気をつけなさいよ」
 中学のときに、あなたの母親が言った。
 あなたの両親は地方公務員で、県外に住んだことのない人で、世間体を気にする人たちだった。
「信也は、親と違って真面目やけん」
 あなたは友達を庇った。庇った? 庇ったのだろうか。
「あんたはちゃんと大学に行って、立派な会社に入ってよ。大学はこっちの国立にしなさい。都会の大学に行って遊んでばかりの子たちの話、母さんは沢山聞いてきたけんね」
 あなたは親に従った。いや、従うという自覚はなく、それが最良の道だと自らが選んだ。選んだと思った。
 この電車のように、レールの上を規則正しく、ときに接触事故や迷惑行為や時間の遅れがあったけれど、安全確認をして再びレールの上を走った。
 信也は高校を卒業すると同時に家を出た。男を連れ込む母親とこれ以上一緒に暮らしたくないと言っていた。
 小さな不動産会社に就職して、そこで出会った年下の女と結婚した。
「しっかりとした良い子だな」
 初めて信也の妻に会ったとき、あなたは素直に感想を言った。
「親が反面教師だったからな。正反対を好きになった」
 そう言った信也だったのに、結婚七年目に、別の女と蒸発した。別の女は、信也の母親によく似た雰囲気を持っていた。
 あなたにも行き先は告げなかった。今でもあなたは、信也がどこにいるのか、生きているのかさえ、知らない。

 まもなく終点の駅に着くというアナウンスがあった。あなたは我に返り席を立つ。
 足を踏まれた。毎日、足を踏まれたり踏んだりすることに慣れたな、とあなたは思う。
 乗客に押されるように列車を降りようとすると、列車とホームの隙間が目に入った。普段は気にしないその隙間が、いやに大きく感じられる。暗く深い隙間。
 吸い込まれるような恐怖を感じて、あなたは慌ててその隙間をまたぐ。

 改札を出るとき、あなたはあの髪の長い女を探した。そして、女の後ろ姿を見つけた。
 あなたの会社は改札を出て右方向にあるから、いつもは何も考えずに右へと進む。
 しかし、今日は、左方向へ歩いていく女の背を立ち止まって眺めた。
 女が振り向く。あなたと目が合う。目が合った瞬間、女が笑った。信也の母親みたいな笑い方だった。
 あなたは左の道を、会社のある方角と反対の道を選んだ。普段は通らない道を、数メートル先を歩く女の後ろ姿をとらえながら、あなたはゆっくりと歩く。女が右に曲ると右へ、左に行くと左へ、その後ろをついていく。

 あなたは歩きながら、佐藤のことを、また考える。
「紙芝居? そんな仕事がまだあるのか? そんなので食べていけるのか?」
 会議室の隅で、佐藤と向かい合って座り、あなたは質問した。辞表を受け取ったあの日。
「食べていけるかどうかは、まだ分かりません。実はこの一年間、見習いとして、土日は師匠の元で手伝いをしていたのですが」
「師匠? 師匠がいるのか?」
「ええ、勝手に僕が師匠と呼んでいるだけですけど、学ぶことが多いんです。紙芝居のことだけじゃなくて、人生の喜びとか、そんなことをいろいろと。初めて、この人と一緒に働きたい、この人から学びたいと思ったのです」
 三年間、あなたは佐藤の上司だった。一緒に働いてきた。でも、佐藤は「初めて」と言った。つまり、今までの上司とは働きたくなかったということだ。
 あなたは佐藤の顔を見た。佐藤はさっぱりとした表情になっていた。嫌味を言ったわけではなさそうだった。
「会社員でなくなるのは、もちろん不安です。でも、道を見つけた、と思うのです」

 路地裏に入ると、小さなバーやスナックや居酒屋のある薄暗い飲み屋街があった。猫がのんびりと店先で寝転び、空のビール瓶の入った箱が並んでいる。朝の空気に、何かが発酵したような匂いが混ざっている。
 あなたが初めて歩く道。毎日出勤している会社とは反対方向に伸びる道には、吸ったことの無いような空気が漂っている。
 女がまた角を曲がった。廃墟のようなビルとビルの隙間に入っていく。人がひとり、やっと通れるような隙間。
 あなたは、その隙間に入るのを躊躇ちゅうちょした。女の後ろを追うのをためらい、隙間の入り口で立ち止まった。
 数メール先で、ふいに女も足を止めた。あなたの方に身体を向ける。あなたと女は、向かい合う。
 女が何か言ったが、あなたは聞き取れなかった。
「なんだ? なんて言った?」
 逆光で、女の表情も分からない。
 女の背後からの光があなたの目を刺す。あなたの視界は白くなる。白くにごる。
 白濁はくだくした世界に小さな黒い点があった。その点に、あなたは目を凝らす。
 どこからか、音が聞こえた。
 ぴっ、ぴっ、ぴっ。     
 音は、だんだんと早く大きくなってくる。
 ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴぴぴぴぴぴぴぴ。



                《8,380文字》
   
 



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