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【エッセイ】夜空はすべてを肯定する

趣味がないというだけで、僕たちはいとも簡単に、軽薄な存在になれてしまう。休みの日なにしてるの?とか、どこか遊びに行ったりするの?とか、そういったことを訊かれるたびに、僕は別に旅行にも行かないし、遠出もほとんどしないし、なにか心血を注げるような特別なものも持ち合わせていないな、と思う。そういう質問自体が嫌味に聞こえたり、自分を誇示しているように聞こたりして、そんなことを訊いてくる他人に、自分の人生に対して、徒に色をつけたがっているんだろ、と毒づきたくなるときもあるけれど、それでも改めて自身を見つめ直すと、そこにある空虚さが逃れようのない事実に思えてくる。

ただそれでも強いて言えば読書は嫌いではないけれど、たとえば、好きな本の良さを語ろうとするとき、そうすることで、その作品を自身で矮小化してしまっているような気がして、そのたびいたたまれない。それでも、たとえ自分の言葉を尽くして、その本の良さを伝えようとしても、多くの場合、すぐに相手は消化不良とでも言いたげな顔になり変わって、たいてい僕の伝えようとしていたことが伝わることはないのだ。そして同時に、自身の作品に対する熱意が足らないように思えてたまらなくなって、余計に自身が軽薄な存在に思えてくる。

そんなこともあって、それは誰が悪いというわけでもないけれど、僕は、僕と対照的な人たち(なにか情熱を捧げるものがある人たち)のことを見ると、何とも言えない空虚な気分になる。別に羨ましいわけではないし、そんな風になりたいわけでもない、それくらい僕にはその人たちがどうでもいいと、心の底から感じているのに、結局はその人たちと僕とのあいだに垣間見える相対性に対して、自然と後ろ向きな感情を抱いている。

僕にそんな風に訊いてくる人たちも、その実、僕と同じように大して好きなものもなくて、長い長い人生のうちの暇つぶしとして、一時的な快楽をその都度満たすことで、さも麻酔みたいに何度も気を紛らわせているだけなのかもしれない、と、そんな風に詭弁みたいな解釈をすることも、もちろん出来るけれど、でもそれは結局自分の感情にメスを入れる助けにはなってくれない。ただ、かと言って、無理やりなにか情熱を捧げることができるものを造り出すのも簡単なことではない。もしそのやり方で少しでも状況を好転させたいならば、なかば思い込みのなかで、自分を洗脳していくみたいにひとつの事物を好きになっていくしかない。今思えば僕は、ずっと無意識にそんな考え方のなかで生きてきたように思う。本当のところ、僕が創作を始めたきっかけも、そういった理由が大きいのかもしれない。感情に駆られたように詩を書いて、小説を書いて、出来上がった作品を愛でて、そうして創作をすることは楽しいけれど、それ以上に、僕は創作をし続けなければいけない、と自分自身で嘯いている。僕はたった今、あるひとつの事物に対して情熱を注いでいると、いつしか心の底から思えるための、そんな岐路に立っている。

そして今、そんな僕の辛うじて趣味と呼べるものが、ただ何も考えずにふらふらと歩くことで、よく僕は、夜空の下、何の目的もなく、そして特別なことを考えるでもなく、ただ歩いている。なにも考えずにと言ったけれども、特に普段から多くのことを考えているわけではないし、怒りのないときの平静な感情は、まさに空虚そのもので、そんな感情がだいたいの瞬間において僕を支配している。正確に言えば情熱がないだけで無力なわけではないのに、無力感を覚えている。その問題を、ただ歩くことで解消できるわけではないけれど、僕はその瞬間だけ、なにも考えないこと、なにも好きなものがないこと、それらが何者でもない何かに確かに正当化されていると感じるのだ。夜空をぼんやり見ているのは気持ちがいい、夜空を見て黄昏ているだけで何かに想いを馳せているように見える、なにかの思い出に浸っているとして、それが虚飾なのかどうかなんて傍目には分からない。そんな風に言ってしまうつまらない僕を、知らないうちに他人と比較している僕を、いつだって夜空だけは肯定してくれる気がしている。



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