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「貢献」という極上の幸せ について考えてみた

私の勤務先は毎年7月から9月まで多忙になります。市の検診が入ってくるからです。だいたい、8月に夏の疲れと検診の疲れがでますので、対策をしながら乗り越えようと思います(o^―^o)

さて、今日は今日の出来事と思ったことを短めに書いてみます。

今日、久しぶりな患者さん(80代)にお会いしました。日頃は、目の見えないご主人の介護などで大変な事が想像できます。

ご主人はだんだん見えなくなっているのは、分かっていましたが、今日改めて奥様に聞いてみたら、「今は光をかんじるくらいかな。もう見えていないと思う。」とおっしゃっていました。

確かに私が今日ご主人の手を引いて歩いた時には、「もう見えていないんだな」という印象でした。

「最近は、ご飯もこぼしちゃうし、ほんと大変!」と奥様。「トイレ行くのも家の中迷って、あちこちの襖を開けてるよ!」

「奥様は、何かストレス発散は出来ていますか?」と聞くと、「そんな余裕ないわ〜」とのことでした。

せめて、この病院にいる束の間、私と接している間に、愚痴を吐き、くだらない事で笑い、少し元気でたって思ってほしいなと、そんな気持ちで接しています。

今日思いました。「昔は、こうゆう気持ちの余裕も時間の余裕もなかったな」と。

「人を癒す」ことを考えるより「私を癒して」が強かった。
「理解する」ことより「わかってほしい!」が強かった。

欠乏していたんですね。
人間は欠乏を補えれば、今度は与えたくなるものです。

「私を満たして」「私を癒して」と、自分がそのようなことを思っているうちは、どんなことをしても、されても、最高の癒しを得られないのかもしれないなと最近思っています。

『夜と霧』の著者でもあり精神科医でもあるフランクルの、「生の意味」を見出すことを求める心の病を癒す心理療法ロゴセラピーがありますが、
その問いとは、

「私はこの人生で今、何をすることを求められているのか」
「私のことを本当に必要としている人は誰か」
「その誰かや何かの為に私ができることには何があるのか」

とあります。

問いに答えを見出すこと、そしてそれを実際にしていくことで、癒されていく。

人間は、人と人とのかかわりの中ではじめて本当の癒しが可能になるんだということをおっしゃっているのだと私は理解しております。

その本当の癒しというのは、きっと自分が無理せずできることで、誰かの役にたち、それを喜んでくださる。そんな体験をするうちに、人は勝手に癒されていくのではないかとそんな風に思います。


私は尊敬する60代の医師から「人生について」直々に学ませていただいています。

先日、「これからは人に貢献することにお金を使っていきたいと」いう話を聞いて、もう、心身を使って貢献してきたため、行きつくところはそういったことしかないんだろうなと私は感じました。

歳をとれば、誰もが心身は衰えていきます。気力も体力も少しずつ減ってくる中で、今度は今まで医師として人に貢献をし、それによりいただいてきたお金をさらに人に貢献することに使っていく。

本当に、素晴らしい生き方だなと感動しました。私もそんな風な人間になりたいと思いました。私の周りには、このような方が何人もいらっしゃいます。そのような素晴らしい方々に人生で出会えたことに、本当に感謝しているんです。


やなせたかしさんも「人生は喜ばしごっこ」とおっしゃっていましたが、喜ぶこともとっても嬉しいけど、喜ばすことって、もっと嬉しいんじゃないかなって思います。

なぜなら、心が満たされていなければ、人を喜ばせたいなどと思えないし、
人を喜ばせることで、本当に心が喜ぶのは、自分自身が満たされているということなんだと思うんです。

自己犠牲の上に成り立つ貢献は、本当に心が喜ぶ気持ちは得られないと思うのです。

だから、「本当に心からの喜びの得られる貢献」というのは、マズローの欲求の5段階の更に上、自己超越の欲求と呼ばれる人生において、最上級の極上の幸せではないかと思っています。


実は、私は30代の頃、人を喜ばすことで「褒められること」が目的になっていたんです。「優しいね」「すごいね」「えらいね」など。

様々な人生経験を経て、それが目的では、本当の喜びは得られないことを知りました。本当の喜びは、そのような言葉は一切いらない、自分自身の中がただ単にぽかぽかすることであると思っています。

目にはみえないけど、これこそが自分の魂の喜ぶことなんだと、50歳にしてやっとわかってきたような気がしている今日この頃です。

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自己実現メンタルコーチ
しんかいさんこと 新海智子

オフィシャルページでもコラムを書いています。

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