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追悼の日( 阪神淡路大震災から29年 )

忘れられない味がある。 

1995年1月17日。
僕がまだ小さかった頃、当時、神戸に住んでいた僕たち家族は、未曾有の大震災に見舞われた。

早朝、体が飛んでいくような凄まじい縦揺れ。
何が起こったのか分からないまま強い恐怖と不安に襲われ、家族全員、着の身着のままで外に出ると多くの人だかりができていた。

皆、一様に混乱している中、僕たち家族は避難所となっている小学校に向かった。
避難民でごった返していた小学校の中は朝にも関わらず真っ暗で電気ひとつ灯っていない。皆、持参した懐中電灯で家族の顔を確かめ合っている。

ガスも水道も全て止まっているようだった。 
「トイレが詰まって使えない」、「風呂は入れないのか」などと不安や不満の声が相次いでいた。
余震が起こる度に暗闇に悲鳴が響き渡る。

そんな中、僕たちをさらに不安にさせる話が耳に飛び込んできた。食糧難の中、コンビニや自動販売機が次々に破壊され、略奪が起こっているという。

また、避難所の中でもいつまで経っても手元に食糧が届けられない状況に不満をもらす人々が続出し、殺伐とした空気が漂い始めた。皆が助け合わなければいけない時にそうした行動を起こす人々に僕は大きなショックと深い悲しみを覚えた。

僕たち家族は不安になってきた。いつまでこんな生活が続くのだろうか。このまま何も食べられなければ生きていくことすらままならない。考えれば考えるほど、不安な気持ちはどんどん増していった。

そんな時だった。突然、隣に座っていたご家族の母親らしき方から声をかけられた。

「よかったらこれを食べてください」 

その方は二つしかない貴重なおにぎりの一つを僕たち一家に分けてくださるという。父が、

「そんな大事なものをいただくわけにはいきません」 

と断ると、その方は、

「困った時こそお互い様です。どうか受け取ってください」 

と言って父の手にそっとおにぎりを置いてくださったのだ。「本当にいいんですか」と父が念を押した後、家族全員でお礼を言ってありがたく受け取った。

おにぎりは具が入っていないシンプルな塩むすび。
おそらく炊飯器からそのままお米をサランラップに大急ぎで作って持ってきたのだろう。
1月の寒さの中、おにぎりは冷たかった。

おにぎりを四等分して食べる。
空腹と不安に苛まれていた私たちはご飯の一粒一粒を噛みしめるように大切に味わった。被災後、初めて触れた人の温もりに私たち家族は胸が熱くなった。何て優しい味なんだろう。

人はどんな時でも思いやりの心を持つことができる、そんなことを教えられ、救われた気がした。 
その後、次々に避難所に救援物資が届けられるようになってからも、僕たち一家がその時の出来事を忘れることはなかった。

今でも家族で集まった時に震災の話を振り返ると必ずあの時のご家族の話題が出てくる。「いつか同じように誰かを助けられたらいいね」と繰り返し話している。 

深い思いやりがこもったあの時のたった一つのおにぎりは僕たち家族にとって生涯忘れられない食べ物になった。助け合いから生まれる温かい思いは、いつまでも冷めることなく心の中に生き続けている。

明日は阪神淡路大震災から29年。
命を落とした当時のクラスメイト含め、犠牲になった方々へ精一杯、御冥福をお祈りしたい。
何年経っても生き残った僕たちの義務なのだ。


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昨年、書いたこちらの記事。
今年も阪神淡路大震災の記憶を書かせてもらいました。やはり1.17は特別な思いが込み上げます。



能登半島地震から約半月。
奇しくも阪神大震災と同じ1月、それも元旦に起きた大地震でした。

発生直後こそ連日、大々的にマスコミ報道していましたが、日に日にそれが極端に減ってきていると感じるのは僕だけでしょうか。

犠牲者が出ているのにもう過去のことなのか。
そんな視聴率重視のマスコミの姿勢が僕には何とも許せないのです。マスコミは阪神淡路大震災の教訓を全く学んでいない。恐ろしいほど風化していくものなのです。本当にあっという間に。

東日本大震災の時は大騒ぎでした。
原発事故の関係で報道も数年に及んでなされました。今なお人々の心に語り継がれる記憶。

それに比べて今回の能登半島地震はどうでしょう。
被害規模の大きさの違い ? 大都会に被害が及んだかどうか ? 

そんなことで人々の命の重さをはかるのであれば、マスコミなんていらないと思っています。
ボランティアを受け入れたくてもできない現状。
何か力になりたいけど今は何もできない全国の人々が抱くもどかしさ。

報道すべきことは山ほどある。
今、それを発信しなくてどうするのでしょうか。

29年前、たくさんの命が失われた。
13年前、大津波が多くの人々を飲み込んだ。
···そして今年も···。

僕たちの「今」は犠牲になった方々の上に成り立っていること。犠牲になった方々の「未来」を僕たちが生きているということ。

もう一度、胸に刻んで明日の5時46分を静かに迎えたいと思います。



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