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中国古典で学ぶべきは時務学ではなく人間学

中国古典に限らず、長い歴史の中で篩にかけられ現代まで残ってきた古典の殆どは、「人はいかに生きるべきか」について書かれた哲学書であると言えます。

更に、中国古典においては、学問の種別を「人が生きる上で中心に据えるべき哲学となる人間学」と、「付属的要素である知識や技術を学ぶ時務学」の2つに大別する事が出来ます。哲学だけではお金を稼ぎ食べていく事が出来ませんし、哲学の抜け落ちた知識や技術ではその場しのぎにすぎない小手先の学問にしかなりません。

また、人間学を本学、時務学を末学と言い、本学がない人がいくら末学を学ぼうとも学んだ知識や技術を上手く生かすことは出来ません。つまりは、先ず本学を身に付けることが大切であり本末転倒してはいけないという事です。昭和の先哲である安岡正篤先生は、この本学や末学に加えて、「習性や躾」が大切であるとも仰っています。

加えて、中国古典は哲学書であると先述しましたが、哲学というものは人の生き方を学ぶことであり、人の生き方というものは立場の違いがある人からは学ぶことがないということはありえません。例えば、商人の立場の人が国を率いる総理大臣から学ぶことは多くあり、逆に総理大臣もまた商人から学ぶことが多くあります。つまりは、「あなたは商人だから商人向けの本を読んでいればいい」「あなたは総理大臣候補だから総理大臣候補向けの本を読んでいればいい」という「この立場の人にはこの書物のみで良い」「その人の立場に応じた知識や技術を学ぶだけで良い」と明確に線引きされた二項対立的なものではなく、むしろ異なる立場の人の考え方や生き方を理解するために多くの書物から二項動態的に学ぶことが最善であると言えます。

因みに、古典に忠実であることを望む人もいますが、古典に忠実であるという事は古典の知識や技術をただ単に丸暗記しているだけで終わってしまい現実社会の中ではあまり役立っていないケースを目にすることが多くあります。古典から知識を学ぶことは大切ですが、その学んだ知識を時代の変化した現代においてどのように知恵として活用していく事が出来るかが最も重要であると私は考えています。

更には、人がこの世で生きる意味の一つとして、「先人たちの残した知識を生成発展させ知恵にしていくこと」があると私は考えています。過去のものを過去のものして残すだけならば、これまでは書物で充分でしたし、これからの時代ならばデータベースにビッグデータとして残していくだけで充分です。

過去に先人たちが残した知識を、現代を生きる私たちが今を生きるための知恵へと発展させ、更には後世に繋いでいくということが大切であり、この「生(い)きるための知恵(ちえ)」こそが「いのち」であり、「いのち」を繋いでいくことが大切であると私は考えています。

補足として、上記はnakayanさん個人の考え方や言葉というよりも、nakayanさんに生きるための知恵を教えてくださった人たちの考え方や言葉という感じです。

補足の補足として、大学の教授や先生たちが本気で研究するご自身の専門領域に対して教授や先生が自らで末学という分には問題はありませんが、末学には未熟な学問という意味もありますので、学生や生徒の立場で末学と表現するのは控えた方がいいです。安易に、末学というと本気で怒られます(笑)

※こちらは2020年1月9日(木)のnakayanさんのtwitterでの連続ツイートを読みやすいように補足・修正を加え再編集したものです。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp


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