見出し画像

『天気の子』映画評・ライ麦畑でつかまえて

こんにちは。ササクマと申します。誰に頼まれたわけでもないのに書く、自称映画ライターです。今回も懲りずに映画評をnoteに上げます。

わたしは前回の予告にて、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の映画評を必ず書くと豪語していましたが、本作はコロナウイルスの影響により公開延期となりました。また次の公開日も未定のため、わたしはnoteを始めて1ヶ月も経たない内にやることが無くなりました。

そして今、特に観たいアニメ映画も無いので、過去に書いた新海誠監督『天気の子』の映画評を投稿します。これまた特に意味も無く複雑な文章構成にしていたため、noteにて大幅な加筆修正を行いました。原文はインスタで読めます。別に読まなくていいです。

で、今回は説明するまでもない人気タイトルなので、あえてストーリーやスタッフの説明はしません。あえての使い方、これで合ってますか? わたしは一体、誰に話しかけているのでしょう? さ、どうぞ本編へ。


◯生きる不安

2016年公開の前作『君の名は。』にて、一世を風靡した新海誠監督の最新作。2019年7月公開の『天気の子』は、2020年4月時点で興行収入(=映画館の入場料金)140億円を超えた。この数字は日本の歴代興行収入12位であり、100億円を超えたのは3年ぶりの快挙となる。ちなみに、『君の名は。』の興行収入は250億円で歴代4位だ。以下に参考サイトのリンクを貼っておく。
http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/

数字だけを見れば前作に及ばなかったものの、わたしは『天気の子』が好きだ。本作のBD&DVDが5/27に発売されることもあり、このタイミングに便乗して映画評を投稿するくらいには、本作の良さを伝えて盛り上げたい気持ちがある。

だが一方で、本作を快く思わない人々がいるのも事実だ。映画公開当時、意外にも批判する声が多く目立ったので、その一例を抜粋して羅列する。

・主人公に共感できない。
・主人公が成長していない。
・ストーリーが閉じている。
・主人公の選んだ結末が身勝手すぎる。
・主人公を支援する大人の行動が理解できない。
・主人公が選んだ結末に対し、周囲が非難しない。


どんだけ主人公のこと嫌いなん?

上記の感想が散見されてしまうのは、観客が『君の名は。』みたいな映画を期待していたからだろう。ってか、『君の名は。』みたいな映画って何? 老若男女が楽しめること? 『天気の子』だってジャンルとしては同じ恋愛エンターテイメントだし、上記のような指摘される箇所を完全に克服しているとは言い難い。

それなのに、どうして『天気の子』だけ槍玉に挙げられるのか? その理由はおそらく、本作が終始もやもやとした曇天のような不安に覆われていたからだろう。しかも、この不安は漠然とした実存の悩みではなく、貧困による切実な「生存の不安」だ。観客が期待していたのは甘酸っぱい青春のボーイミーツガールなのに、出て来たのが見ていられない「生存の不安」だからこそ、万人受けせずに一部が不快感を示した。

で、なぜ作品に貧困の要素を取り入れたのか? それは主人公が選択した結末の、狂った世界と関係がある。もしも『天気の子』のテーマを気候変動とするなら、物語の結末は調和となるはずだ。また、新海監督は作品に自然災害を取り入れるが、本来の作家性は環境問題の警鐘ではない。とすれば、気候変動と貧困問題は同じ大きさで扱われていることになり、本来のテーマは一段階上のステージ。つまり、現実の理不尽だ。

異常気象が発生しない自然も、裕福な家庭を築く両親も、後から生まれてくる子どもは選べない。既にある形の世界で生きていく。それでいて、受け入れられない社会とは対立する。このちぐはぐな人格形成を表しているのが、本作の主人公である帆高だ。


◯見えない自由が欲しくて

彼は家出少年である。そして、家出の理由は作中で説明されない。新海監督曰く「過去のトラウマで駆動するよりも、前だけを向いて走り続ける少年少女を描きたかった」とのこと。作品の世界観は監督の言葉が全てであり、わたしの手元にはパンフレットがあるため無敵だ。この映画評でわたしに逆らうということは、監督に逆らうことでもあるので気をつけるように。

実際、家出する理由なんて人それぞれで、ありふれたものになってしまうし、かと言って特別にしても観客は共感できない。だが、読み取ることはできる。

物語の回想中、帆高の頬には赤い痣があった。あの傷はおそらく、父親に殴られた痕だろう。また、回想で写真がスライドするシーンがあり、その中の一枚に父親と並ぶ帆高の姿がある。父親は立派な髭とスーツ姿であったことから、島の有力者で教育にも厳しかったことが伺える。

ここまでの情報さえ準備できれば、後は想像に難くない。あえて、わたしが彼の強い自立心の源を考察するのであれば、島という限定的なコミュニティ内で育ったがゆえに、自分で何も選べないまま自分のことを決められることに反発したかったと解釈する。

だからこそ狭苦しい島を家出するだけの行動力を発揮し、東京でも自分らしく生きられると思ったのではないか。それに一般的な地方出身の若者は大都会東京に憧れを抱くものであり、自らの人生を新しく再生すべく全力を懸けて臨む。

まぁ、よくある話だ。映画の貴重な時間を割いてまで、わざわざ説明するようなエピソードでもない。その代わりと言ってはなんだが、主人公帆高の性格を表す演出が序盤にある。警報を無視して船の甲板に上がり、土砂降りの中で嬉々として叫んでいたシーン。作劇上の役割としては、「この少年は他の人とは反対の方向へ行ってしまう人」を示す。


島から脱出した解放感に歓喜する帆高であったが、しばらくは東京に馴染めないままジリ貧な生活が続く。彼は社会に適応したい自立心を持っていたのに、なぜ努力しても報われなかったのか? 一番の原因は身元不明の未成年であることだ。そのため、社会が帆高を受け入れなかったわけではない。逆に帆高が社会を許容できなかった。

なぜなら、帆高は純粋無垢な子どもの夢が好きで、胡散臭い大人の現実が嫌いだからだ。根拠としては彼がネットカフェで寝泊まりしていた時、J・Dサリンジャー著書/村上春樹訳『The Catcher in the Rye』でカップ麺の蓋を閉じたシーンが一瞬だけ映る。この本は登場人物の人格形成を示すアイテムとして非常に優秀であり、愛読しているキャラは高確率で子どもの夢と大人の現実との境で葛藤していると思っていい。

事実、映画は子どもの視点で進む。帆高は年下の凪を先輩と呼び、ラブホに行っても大人の道具には目もくれない。彼は子どもの世界にありながら、大人の社会に適応しようと奮闘し、でも大人の嘘や理不尽は許せないでいるから、徐々に大人の汚さへ染まろうとする自分に嫌悪感を抱く。なかなか複雑な立場で、不安定な精神状態だ。

それでいて大人達が巧妙に、あるいは狡猾に案出した現実処理の方法は会得していないため、自分独自の方法で対処するか、方法も見つからぬまま体ごとぶつかるしかない。なので無計画に家出したり、警察から逃げるなどの無謀な行動力を発揮できてしまう。


さらに考察を進めれば、作中で拳銃が出てきた理由と紐付けて推測できる。我らの新海誠監督が、意味も無く唐突に銃器を使わせるわけがない。パンフで監督が明言したわけじゃなく、わたし独自の解釈で申しわけないが、1968年に引き起こされた青年N19歳の無差別連続射殺事件をモチーフとしたのなら、銃が物語上で大きな役割を担っているのも頷ける。

田舎の貧しい家庭に生まれた青年Nは、その故郷から脱出しようと東京で暮らす。強い自立心を持って上京し、自らを再生すべく全存在を懸けた営みは、自分を見つめる他者の存在によって阻まれる。他者からの眼差しを通して、田舎者という自己の属性から逃げ出せないことを思い知った彼は、「私を見るな!」と叫んで銃を撃った。(参考文献:見田宗介『まなざしの地獄』)

帆高と青年N、共通点が多いように見受けられる。帆高も自由な居場所を求めて、社会の監視から逃れようと銃を構える。ただ、その銃口が向けられるのは現実という概念、つまりは実体を持たない虚空だ。対立すべき壁なんて、とっくに崩壊している。現代社会の日本において、明確な独裁者は存在しない。あるのは孤独な群集だ。

誰が敵なのか対象を見つけられない帆高は、得体の知れない何かに怯えながら、怒りの矛先を周囲に向けるしかない。ただ自由でいたいだけなのに、自分らしくありたいだけなのに、大切な人に会いたいだけなのに、どうして生きられないんだと、「ほっといてくれ!」と叫ぶ。

このまま行けば、帆高は青年Nと同じく、悲惨な末路を辿るだろう。だが、最悪の結果は免れた。なぜなら、帆高には救いがあったから。何を隠そう、ヒロインである陽奈の存在だ。何を隠そうの使い方、これで合ってる? え、もうええて?


◯作品に込められた願い

わたしは以前、劇場版『SHIROBAKO』の映画評後半にて、映画の効果的な分析方法を紹介した。それは作品のフィクショナリティを見破ること。

「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」

これは『コロボックル物語』の作者、佐藤さとる先生の言葉だ。どれだけファンタジーな童話であっても、それらの世界が破綻しないのはリアリティあってこそ。たった1%の不思議を成立させるためには、残り99%の現実で物語を構築する必要がある。


そして『天気の子』における1%の不思議は、晴れ女である陽菜の存在だ。分かりやすくて助かる。後に語られる昔話の伝承は、晴れ女の不思議を成立させるためのリアリティ投入にすぎない。陽菜が晴れ女(天気の巫女)に選ばれた理由付けも、「母系の素質があった」「神様と目が合った」からなのかなぁ、という曖昧な設定だけ。ついでに書くと、この昔話自体が不思議要素であるため、あまり膨らませすぎてもリアリティを失ってしまう。

作品のフィクショナリティを見破る上で肝心なのは、創作者の願いを汲み取ること。物語の不思議は創作者の願いでもある。そもそも、なぜ人は物語を制作するのか? それは現実を超えたいからだ。現実で嫌なことがあった時、人は物語を必要とする。現実での願いを妄想し、でも妄想だけでは何も変わらないから、自分が救われたくて創作を行う。その救いこそが、願いとして観客に伝わる。


では、新海監督の願いとは何か? 美少女とキャッキャッウフフな恋愛がしたい、だけなら晴れ女の設定は邪魔だろう。ここでは晴れ女になったことで、ヒロインの陽菜が置かれた立場に注目する。

天気を晴れにする能力を偶然にも授かった陽菜は、世界の異常気象を止める人身御供となってしまう。つまり、世界と美少女を天秤にかける状況を作り出す必要があった。

ただ感動を誘いたい恋愛映画だったり、ヒーロー映画だったりするならば、世界あるいは両方とも救うのだろう。だが、『天気の子』は美少女を選び、世界を切り捨てた。なぜ両方を救う結末にしないのか、その理由は新海監督の過去にある。

新海監督の実家は大きな建設会社であり、周囲から家業を継ぐことを期待されて育つ。しかし彼は跡取りを断り、やりたいことのためにゲーム会社へ就職した。夢を追う主人公は『言の葉の庭』で登場し、地元の息苦しさは『君の名は。』で顕著に表れている。 主人公の瀧は東京都在住の青年だが、風景画を描く趣味は本人と一致しており、それが現実でも物語でも救いとして機能していた。また、作品の風景も美しい。


『天気の子』は世界と美少女を天秤にかける物語だ。これを新海監督の過去に当てはめると、実家の期待と自分の夢になる。さらに第三者にも当てはまるよう、分かりやすく言い代えるのであれば、世界の理想と個人の夢が作品のテーマとして適切だろう。

理想と夢の違いは、人々の願いの数だ。理想はたった一つのもので、それ以外の信条は絶対に認めない。対して夢は人間の数だけ存在して、それぞれの願いを尊重する。

帆高は世界の調和よりも、陽菜の命を選択した。新海監督は家業を継がず、アニメ監督になる道を選んだ。それが正しかったのかどうか、なんて議論こそが間違っている。なぜなら「映画は学校の教科書ではない」からだ。創作者自身の生きている実感を、物語に落とし込む。それを誰かに批判されたところで、誰にも自分の心は裁けないだろう。


◯ライ麦畑と大丈夫

先述したテーマは『天気の子』だけに留まらない。新海監督作品に共通する演出については、「距離」と「喪失」の話が有名だ。誰かが既に書いていることを、わざわざ自分で書く必要は無いため、以下に参考サイトのリンクを貼っておく。

ダ・ウィンチニュース
https://ddnavi.com/tokushu/546698/a/

で、『天気の子』における「距離」と「喪失」は何か? 仮に選ばなかった【晴れ】の世界を「喪失」とするのなら、選んだ先にある夢は「獲得」になる。そして、その夢を「獲得」するためには、「距離」を超えなければいけない。帆高は何の「距離」を超え、何を「獲得」したのか、これから言葉にしよう。

ちなみにだが、「距離」の演出は一作品につき、ひとつと条件が決まっているわけではない。物理的な距離の他に、国境、生死、年齢、時間など、作品によって複数の「距離」が組み合う。『天気の子』の場合は、池袋駅から代々木駅、地上から空までの物理的な距離がある。しかし、人身御供となった陽菜が存在するのは現実世界ではなく、よく分からない時空に出現した雲の上だ。

陽菜が寝ている巨大な雲は、積乱雲が高度に発達した「かなとこ雲」と呼ばれるものらしい。この雲の特徴は上部が平らなことであるが、その平地には草原が広がっていたことから、やはり監督の心象風景を表していると考えられる。

そして、わたしは、この心象風景が、「ライ麦畑」だったらいいなぁ、と思う。


遅ればせながら、『The Catcher in the Rye』の内容を簡単に紹介する。

学生である16歳の主人公ホールデンは、クリスマス直前に学業不振で退学処分となってしまう。ルームメイトと喧嘩をして学生寮を飛びした彼は、生まれ故郷のニューヨークに戻るが、そこに彼の居場所は無い。なぜならホールデンにとって社会や大人の存在は全て欺瞞に満ちていて、それらを受け入れることができないからだ。

かくして、ホールデンは心の繋がりを求めて放浪の旅に出る。過去の知人や、旅先で出会った人と交流するが、全てが気に入らない彼は結果的に孤独を深めていく。すっかり落ち込んだ彼は疲弊し、純粋無垢な妹のフィービーに会いたくなる。そして彼は、妹に向けて自分がなりたい存在について語った。

この存在こそが、ライ麦畑の「捕まえ手」だ。彼はライ麦畑で遊ぶ子ども達が崖から転がり落ちそうになった時、さっと飛び出して助ける役割を担いたいと願う。ここで言うライ麦畑が純粋な夢で、崖下が汚い嘘と欲に溺れた大人社会を指す。つまり、彼は子どもが大人になるのを防ぎたいのだ。そして、自分も誰かに捕まえてほしい。


以上が内容の説明だが、結局のところホールデンは「捕まえ手」としての役割を放棄する。いや、放棄せざるをえなかったが正しいか。捕まえたくとも手が届かない。だが、『天気の子』は最後まで役割を放棄しなかった青年の物語だと断言できる。

終盤、帆高は大人達の包囲網を潜り抜け、ようやく屋上の鳥居へと到達した。そこから空へと繋がって陽菜を救い出してから、3年後に再会した彼は物語の中心となる言葉を伝える。

「僕達は、大丈夫だ」

本作で取り上げている不安の質は生存だ。社会で生きられず、世界に分断されたことを嘆く。ゆえに、帆高は子どもの夢と大人の現実という精神的な「距離」を詰め、その先でライ麦畑に取り残されていた陽菜を捕まえ、かなとこ雲から一緒に落下した2人は「社会」を「獲得」する。


それまでの帆高は社会に順応したくとも、社会と折り合いがつけられなかった。子どもの夢から大人の現実へと落ち、過酷な理不尽を受け入れることに耐えられない。だが、貧困に苦しむ陽菜と一緒に生活するためには、真面目に勉強をして、謙虚に仕事をする必要がある。それを理解した彼は大人社会が嘘で汚れていようとも、社会の中で懸命に生きる決心をした。

だからこそ、帆高は高校卒業まで陽菜との再会を待てた。一方で、実家の期待に応えようとはしていない。なぜなら、彼は大学で農学部を専攻することが後日談で判明したからだ。気候が変わった時代で必要な知識を学びたいとのこと。彼は今も自分なりに考え、やりたい夢を選択し続けている。

まだ帆高は「捕まえ手」としての役割を放棄していない。そして、それは『天気の子』を制作した新海監督も同じである。さらに言えば他の映画監督、小説家、漫画家、音楽家、その他大勢も「捕まえ手」を続行中だ。いつだって誰だって、転がり落ちる少年少女達をキャッチ&リリースしている。なんてことを考えてみると、自分が生きている今の社会も、それほど悪いような気がしなくも、なくもなくもなくもなくもなくもない!


◯おまけ

余談だが小説『The Catcher in the Rye』は、2002年のアニメ作品『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』でも重要な鍵を握る。こちらは野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』を取り扱っており、その中で印象的な文章を引用した。

「僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ」
I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes

その一文の後に、小説には無い言葉を書き加えている。

「だが、ならざるべきか」
or shoud I ?

これを受けて、主人公の草薙は多少のアレンジを加えて問いかける。

「社会に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ。それも嫌なら……」

この先の台詞を草薙が言うことはない。わざと台詞を途切れさせ、観客に反芻させる演出となっている。

で、わたしが分析した結果、後に続く言葉は「世界を変えろ」だ。このメッセージには以下の意味合いが含まれている。

世の中の不正や理不尽を目撃した時、見ず聞かず不平も言わずに暮らすのか。あるいは間違いを自ら正そうとするかが、本作品でのメインテーマだ。

ちなみに、現在Netflixにて『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 2045』が配信中。この世に観ないといけないアニメは無いが、本作は今の時代だからこそ観るべき価値のあるアニメだと思う。


2020年5月現在。世界は未曾有の危機に襲われている。新型コロナウイルスの感染を防ごうとし、外出を控えた人々の生活は経済的な大打撃を受けた。

そんな最中、日本では検察庁法改正案が話題となっている。

……わたしも本当は、作品と時事問題を結び付けたくはない。なんだか読者の感動を誘うために、作品も問題も利用しているみたいで嘘臭いからだ。なんか変な注意書きも出るし。マジでウザい。

だが、鬱陶しい外聞を押し退けてでも、我々は選ばなければいけない。なぜなら世界は狂っているから。それでも、世界は最初から狂っていたわけじゃない。わたしが変えたのだ。

自分が世界を変えた意識を持つためにも、わたしは選択の連続を駆け抜ける。そうでもしなければ、己の責任感を自覚できない。世界も家庭も自分では選べないが、その中で生きることは選択できる。

人は完璧ではないから、時には誤った判断も下すだろう。誰かのせいにするなとは言わないが、わたしが忌み嫌う汚い嘘の正体は責任の押し付けである。

無責任な大人にならないためには、自分で世界を変えるしかない。おかしいと思ったら声を上げる。わたしが信じた世界で、わたしは自分を信じたい。

案ずるな少年少女よ。わたしも「捕まえ手」の一員として、微力ながらも書き続けることを勝手に約束しよう。どっからでも転がり落ちてこい。メンバー募集中だ。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

映画感想文

いただいたお金は、映画評を書く資料集めに使います。目指せ3万円。