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二項対立で見ることの問題について

今夜、"支援"の仕事から帰宅する途中の電車の中で、川口有美子さんの書いた「彼女は安楽死を選ぶしかなかったのか」という記事を読んだ。

NHKテレビのドキュメンタリー番組で、"多系統萎縮症"の日本人女性が、スイスに渡り、医者の"助け"を得て"安楽死"したことが放映され、それを受けて書かれたものらしい。

リンクを貼るので、ぜひ読んでみてください。

この記事の最初の方で、川口さんはまず、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者である若い女性のエピソードを置いて、彼女の意識が「どう変化してきたか」を追っている。

その後で、NHKテレビのドキュメンタリー番組に触れ、こう書く。

障害を受け入れて生きる人と、障害を拒んで死んでいく人。その二者を対置させる演出は、安楽死をより鮮明に印象付けたに違いない。
でも、私はそのような二者の見せ方では、足りなかったと思っている。個人の選択の尊重とか、死の自己決定ということから、安楽死合法化という問いを少しずらしてみたいのだ。

人のあり方、生き方を二項対立で見るには、「この人はこうだ」「あの人はああだ」という決定が(できると思うことが)前提となる。

しかし、人の意識というのは、そんなに単純なものだろうか?

今日、死にたいと思っていた人が、明日には、やっぱり生きようと思う。ぼくはそういう人の生き様を、尊く感じている。

川口さんも「人の考えは、変わるものだ」ということを強く意識してこの記事を書いている。

じつは今度の『アフリカ』に載せるぼくのエッセイでも、「人の気持ちも考えも、うつろうものだ」ということを自分を実験台に(?)書いている。以前、ここでも書いた「活字の断食」について、詳しく報告するものだ。

この人の場合とあの人の場合を、二項対立で比べるのではなく、それぞれをひとりの人として、どうなっていったかを見なければ、じつは何かをわかった気になるということで終わってしまう。

心から苦しんだ経験のない人には、ほんとうに人が変わるということを見たことがなかったり、実感したことがないのかもしれない。

いや、苦しんだ経験のない人なんて、いるだろうか。問題は、それを意識するかどうか、だ。

意識するとは、では、どういうことなのか。

その(意識の)流れの、プロセスに目を向けるという、じつはけっこう単純なことではないか、と思う。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、6月22日。今日は、彼の冒険気分を盛り上げるあのアイテムの話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。

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