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しなやかな闘い

先日、台風の前だったか、トップ・ミュージアム(東京都写真美術館)で、「しなやかな闘い〜ポーランドの女性作家と映像」を観た。これが予想を超えてとっとも面白かった。それから10日ほどが過ぎたが、いまでもその余韻の中にいる、と言ってもいいくらいだ。

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こういう時、何が、どう良かったか、ということは、簡単には説明できないものですね。──と言って終わらせてもいいのだが、それで終わらないのでこうやって少し書くことにした。

興味を持ったのは展覧会のタイトルで、「しなやかな闘い」という。展示されているのは映像と、それにまつわる写真、ことば、だ。そういった表現を指して「闘い」というところに、ぼくは自分(たち)自身のいまを重ねるし、それに「しなやかな」をつけるところに、何か歌を聴くような気分だ。

歌というのは、生きる力というのか、商品になって消費されるものという感じではなくて、聴く人によって生きる歌、民衆の歌というか、そういったものだ。

印象深かったひとつに、ヨアンナ・ライコフスカという人の撮った「バシャ」という映像がある。

解説によると、ライコフスカさんは「認知症を患い晩年を施設で過ごしたお母さんのことを思って」その作品をつくったのだという。パジャマ姿で、バッグひとつ抱えた初老の女性(を演じる作者)が街をさまよう様子が、たんたんと映し出される。やがて、ある女性が心配して声をかけ、保護されて病院に連れ戻されるのだが… しかし彼女は演じているだけである。バックの中には隠しカメラがあり、彼女にかかわってくる人びとの顔をアップで映し出す。彼らはその人(初老の女性)がフィクションだとわかって演じているのか、あるいはノンフィクションの世界にいて(認知症の彼女がフィクションの存在だと)気づかずにいるのか…? だとしたら撮影している人は、どこで、どんなふうにしているんだろう。──そんなふうに、いろんなことを感じさせる映像なのである。

スザンナ・ヤニンという人の撮った「闘い」という映像作品では、白いリングの上で、小柄(に見える)女性が、大柄(に見えていかにも強そうな)男性と、ボクシングをしている。ただ、ひたすらボクシングをしている。つづけている。展覧会場には、その音が、たんたんと響き渡っていた。そこには2人しかいない。ジャッジをする人も、観客もいない。ただ2人だけの「闘い」である。

見るぼくの心は、女性の方に向かう。しかし、ぼくは同時に男性である。たとえばぼくがもし女性だったら、どうなるだろうか。心は男性に向かうかもしれない。いや女性に向かうかもしれない。わからない。しかし、見ている自分が、男性だけになっていることは不可能だし、女性だけになっていることも不可能だと感じる。

そうさせるのが、表現というものである。

ウェブで検索したら、画質は悪いが、その映像が出てきて、2人がボクシングをしている音を再び聴きながらこれを書いた。

(つづく)

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