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ひきつづき、「前衛と韜晦〜花田清輝を再読する」を読む

昨日のつづき)

『復興期の精神』に収められている文章は、軍国主義を叫ぶことも、「反戦」を唱えることもしない。

今日のような転形期にのぞみ、生れながらにし修辞的である女のほんとうの顔は、抽象的な意味において、かならずイエスのそれと多くの類似性をもつのである。

もともと花田は本のタイトルも「復興期」ではなく「転形期」ということばで考えていたらしい。

「前衛と韜晦(ねこかぶり)」の中で四方田犬彦さんは、

「今日のような転形期にのぞみ」とは、なんと韜晦に満ちた捨て台詞であろうか。「今日のような非常時にのぞみ」「今日のような世界史的使命の実現の日々にのぞみ」…無数の「今日」の嘲笑するように、「イエスと女」が前景化され、抑圧された存在として肯定されることになる。

と言う。これを"切り口"として花田をフェミニズムの方へひらいていくことも可能だろう、とまで言っている。これはもちろん、今日、私たちが生きているいまの、この社会に向けて言われている。

さて、しかし当時、検閲する側はこういったエッセイの"真の意味"を理解することはできなかった。だから、捕縛もされず「完全に無視され」ることができた、と。これが今回のこの四方田さんの花田論というか『復興期の精神』論のクライマックス(?)である。

もちろん周囲には、軍国主義に追随して「聖戦のさなかにあることの幸福を、夏の蝉のように合唱する」知識人たちがたくさんいた。

四方田さんはこう指摘する。

ファシズムとは人をして語らせる制度であるという真理を、ここでもう一度想起しなければならない。花田は彼らの口吻をそっくり真似ながら、それを「転形期」という独自の語彙に読み替えてみせた。

「人とちがうことが語りたかったら、人とちがう言葉を使え」と言ったのは、たしか、スコット・フィッツジェラルドだったかな(調べずに書いてます)。

ぼくはこの20年、この社会が"わかりやすさ"への信仰に突き進んでいたのを知っている。"わかりやすさ"というのは、おそらく厳密にいえば、「わかりやすいような感じ」なのだろう。そこに落とし穴がある。「深く読まずともわかった気になれる」と言ってもいい。

また太平洋戦争中には多くの人が軍国主義に染まり、戦後には民主主義の大合唱に走った、という歴史も知っている。ぼくは何十年も後の時代に出てきて、過去のそういう日本人たちを苦々しく見ている。そういった過去の人たちの上っ面な精神が殆ど何の反省もなく、いまだにこの国に生きているということも、なんとなく知っている。生きてゆくために仕方がなかった? そう言う人たちは私たちのこどもたちを平然と見殺しにするだろう。

複雑な気持ちを抱えたまま、戦後を生きてゆこうとしていた一部の知識人たちにとって、『復興期の精神』はどんな"戦後文学"よりも光り輝いて見えた…かもしれない。そんな想像を、ぼくは2019年にしている。

そうしてぼくは再び、"わかりやすさ"信仰への、巨大な危惧を抱いている。何かあった時に、相変わらずこの国の人びとが同じことばの大合唱を始め、安易に議論を回避するような傾向を危惧する。

正気を保ったまま生きてゆくためには、闘わなければならない。しかし、普通に真っ正面から闘うというのは危険すぎる。闘わずして闘い続けることができれば…

いまこの時代において、「前衛と韜晦」の技術はどのように発揮できるだろう?

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、6月3日。今日は、シャチとトートバックの話。

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