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あの頃、母に抱きしめてほしかった。【母の日】

「母の日」だからと言って、母へ最後に贈り物をしたのはいつのことだろう。

1999年、私は母と2歳下の弟と三人、団地で暮らしていた。

小学4年生だった私は、毎晩寝る前に、

「誕生日もクリスマスも何もいらないから、お母さんがいなくなりませんように」

と心の中で強く願って泣いていた。

なぜか不安が押し寄せてきて、母が突然いなくなったり死んだりするのではないかと怖かった。

「人類が滅亡して、世界が終わる」

ノストラダムスの大予言が大流行していたころだった。


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私は2年前の4月頭頃まで、9~10カ月ほどのあいだ母と二人で暮らしていた。

18歳の春に大学進学とともに北海道の田舎から札幌へ出てきて以来、一人暮らしをしたり恋人と同棲したりしながら、仕事を辞めても地元へ帰るという選択肢は無く、札幌でどうにか暮らし続けていた。

家族は家族で、私が家を出た後に色々あった。地元を急に離れることになったり、そうかと思えばまたいつの間にか札幌へ引っ越してきたりと、形を変えながら、いっときは皆が札幌にいながらバラバラに住んでいたりして、説明する方が面倒くさいような複雑な状況になっていった。(現在進行形)


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3年前の私は、30年生きてきた中で恐らく一番悩んでいて、短い期間で相当浮き沈みが激しかった。だから、今思えば正常な判断もできていなかったと思う。プライベートでも仕事でも不安やストレスが酷くて胃薬が欠かせなかったり、変な病気になって一週間仕事を休んで毎日通院で点滴を打ってもらったりもした。

その頃、どうしても成し遂げたいことがあって、そのためにはまとまったお金が必要だった。

そこで、同じく一人暮らしの母へ思い切って相談し、「お金が貯まるまでの間だけ、一緒に住まわせてもらえないか」と頼んだ。

なんだかんだ了承してもらい、当時一人暮らししていたマンションを出た。

母と暮らすこと自体が18歳の時ぶりであったし、その頃は義父を含めた家族全員一緒だったから、二人暮らしというのは不思議な感じだった。

何年かに一回くらいの間隔で、弟や祖父とタイミングを合わせて、会って食事するくらいのことはあったけど、まさか今さら一緒に生活するなんて。

きっと母も驚いたと思う。私も、まさか自分が母にそんな頼みごとをする日が来るなんて思っていなかった。


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以前の記事でも書いたが、私は母と決して「仲良し母娘」ではない。

母に逆らうことさえなかったけれど、子供の頃は名前ではなく「ブス」「ブタ」と呼ばれていたし、高校生以降は自分の気持ちを押し殺して母に話を合わせることが多かった。そして家を出た後は、お互いに仲良しを「演じる」ようになっていった。

たま~~に短い時間、第三者も同席して会うくらいが丁度良かったのだ。


案の定、同居初日に大喧嘩をして二人とも号泣した。

一緒に号泣、と言っても別に、それまでの30年のわだかまりが解けて嬉し泣きしたという意味ではない。

母に真剣に本心を打ち明けたことが果たしてあったのかどうかも覚えていないし、あったとしてもそれがいつだったか思い出せないくらいだけど、その日は「これから自分がどうしたいのか」を噓偽り無く一生懸命説明した。

母が暮らす家に転がり込ませてもらうのだから、その目的をきちんと話しておくべきだと思った。私なりの誠意のつもりだった。


でも、結局分かってはもらえなかった。

「どうせうまくいくわけない」
「路頭に迷って野垂れ死にすることになる」
「あんたの言うことには説得力がない」
「これまで仕事も恋愛も続いた試しがないんだから」

全部、母からその日直接言われた言葉だ。
それ全てに反論したけど全部頭ごなしに否定されて、泣いた。母が泣いた理由は、怒りなのか呆れなのかわからなかった。

そんな感じで2019年6月から、母娘の二人暮らしは始まった。


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あるときは、母が街で少し高いけど美味しいケーキを買ってきてくれて、一緒に食べたり、一度か二度は二人で家で映画を観たりもした。仕事に持っていくお弁当を作ってくれたこともあったし、夜家に帰ると、私の好物の唐揚げも作っておいてくれていたりもした。そのたびに私は大げさに喜んだ。私の反応を見て母が満足し、喜ぶ顔を見るのは嬉しかった。


そんな楽しい思い出もあったけど、それも結局は「仲が良い長女と母親を演じていた」だけだったように思う。いつもどこか虚しくて、母と話した後はどっと疲れた。母も同じだったかもしれないけど。

私はだんだん、家にいる時間を減らしていった。


実は、7月末の段階で、私がお金を貯める目的はもうなくなっていた。お金を貯めても私の一存では叶えられないことが確定したからだ。

でも、そのことを母には決して言えなかった。同居初日にあれだけ強く主張したのに結局こうなってしまったと知れば、何を言われるかわからなかった。私自身、諦めざるを得えなくなった事実に相当落ち込み、何もかもに絶望していた。

身体を壊すほど悩んだこと、一人暮らしを辞めたこと、ろくに相談すらしてこなかった母に恥を捨てて頼ったこと、お金を貯めてきたこと。

全部水の泡になってしまった。

そこでもし、

「やっぱりね」「どうせそうなると思った」

なんて言葉で追い打ちをかけられたら、簡単に心が折れて、二度と立ち直れないと思った。

だから、私は母にはそのことをなかなか切り出せず、しばらくはそれまで通りの生活を続けた。一人暮らしを再開する口実を考えながら。


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母は早番のある仕事だったし、ほぼ毎日ジムに通っていたから、生活がすれ違うのは元からだった。それでも、たとえ母が帰宅して寝るまでの1~2時間であっても、顔を合わせるのがとにかく苦痛だった。

私は仕事が終わるとそのままバスに乗るか歩くかして、職場から4駅くらい先にあるカフェに行ったり、ネットで知り合った友達と長電話しながらひたすら家の近くを歩き続けたりして、日付が変わるくらいまで外にいるようにした。
(ちなみにこの記事の見出し画像は、そんな冬の散歩中にスマホで撮った写真。雪の間から覗く、遠くの夜景)

当然平日は仕事なので連日寝不足で、よくレッドブルを飲んでいた(笑)「家に帰っていないから」なんて理由は、誰にも言えなかった。


同居生活中盤あたりは、当時短期間だけの付き合いで終わった恋人の家にほぼ居候させてもらっていた。家に帰るのは着替えを交換しに行くためだけで、週に1,2回程度にまで減っていた。


つまり、18年ぶりの一緒の暮らし、それも最初で最後の二人暮らしは、初めの1~2か月くらいを除いて、あとは殆どすれ違いでボロボロだった。

年明けごろからは常に部屋探しをしていたし、母とは日に日に喧嘩が増えた。顔を合わせないから、LINEや置手紙など、文字での喧嘩。

ひどいときは、もう思い出したくもないような言葉を、互いに朝からLINEで言い合った。職場のデスクに着いた後も涙が溢れて止まらなくなり、仕事中何度も何度もトイレに駆け込んだりもした。
(勿論、これも誰にも言えなかったから、泣いてることがバレないようにとか、仕事をサボってると思われないようにしなきゃと必死だった。)

傷ついたし傷つけたけど、どうしても謝る気にはなれなかった。


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そして、3月に引っ越し先が決まり、母の家を出ることになった。

「もう二度と顔も見たくない」

すでに母からそんな風に言われる状態になっていたので、最後の夜に一緒に食事するとか、引っ越しの手伝いをしてくれるとかは当然なかった。

私は、一人暮らしの部屋から持ってきた荷物を、また全部、そっくりそのまま移動させなければならなかった。

引っ越しのたびに物を捨てるから、思い出の品から順になくなっていく。

地元にいた頃は3~5回(両親の離婚後に居候の時期があったりしたから曖昧)、札幌に来てからはこれを含めて6回の引っ越しを経験している。(地元→札幌も含む)

だから、子供の頃に自分が描いた絵や工作、通知表、ぬいぐるみやゲームソフトなどのオモチャ・・・そういうガラクタはほとんど残っていない。


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家を出ると同時に、母のLINEをブロックして、もう二度と連絡も取らないし、会わないと決めた。

つまり「縁を切る」ということだ。というか、LINEで大喧嘩した時点で、そういう話になっていた。

「毒親」の定義やそれに関する書籍を読んでも、正直自分が「毒親育ち」と言っていいのかはわからない。他の親に育ててもらったことがないから比べようもない。

でも、何度も苗字が変わったり色々あったから「普通」ではないと思っているし、それをわかりやすく人に伝えるために「毒親」という言葉を使うことはある。

「毒親とは距離を取るべき」

毒親について語る人は大体そう言うし、実際、歩み寄ろうとすればするほどお互いが傷つくのを身をもって経験しているから、そうなんだと思う。

母から離れて、期待するのをやめて、私は楽になった。

でもそれは、世間一般の家族と同じくらい自分を大切にしてくれる人と、運よく巡り会えたからだと思っている。

それは、今の私を支えてくれている夫に他ならない。


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なんだかんだ言って、家を出て1年後には母と再会した。

結婚相手を紹介しなければならなかったからだ。

夫が「挨拶したい」と言うので、私は1年ぶりに母に連絡を取った。

あんな別れ方をしたから、どんな顔をして会えばいいのかお互いにわからなかったけど、喧嘩して大号泣、なんてことにはならずに事なきを得た。

それをきっかけに、また何カ月に一回かくらいは顔を合わせるようになった。祖父から送られてきた野菜と届けてくれたり、そういうちょっとした時間に少し近況を話す程度だけど。


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結婚報告のときに、会社員を辞めた話もした。
そして、今は宅録ナレーターをやっているということも打ち明けた。

どんな反応をされたかは、多分説明しなくても、ここまで読んでくれた方ならわかってくれると思う。

オーディオブックのお仕事に初挑戦した時期だったから、

「こんな仕事してるよ!」

と、自分の名前が載った表紙画像を見せた。後でオーディオブックのサイトのURLも送った。

母は読書が好きだった。私が読書好きになったのはほとんど母の影響で、中学生の頃に眉村卓の学園物のSF小説を教えてもらって、以降図書館に通うまで小説が好きになっていった。

そんな私にとって、オーディオブックのナレーターという形で、自分の「声」という強みを活かしながら大好きな「本」に関われる仕事というのは、願っても無いありがたい仕事だったのだ。

だから・・・

これまでの私の人生の選択が失敗だらけだったとか、長続きしなかったとかがどうであれ、今は大切にしてくれる人と暮らしながら、生き生きと元気を取り戻し、好きなことを仕事にできているということを、母にも一緒に喜んでほしかった。

ただ、それだけだった。


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私がこのnoteを始めたのは、やっぱり「母」のことを書きたかったからだと思う。

自分がHSPとかアダルトチルドレンとか、何か精神疾患があるのかとかは、心療内科や精神病院などのカウンセリングは一度も受けたことがないからわからない。ただ、「これが自分に近いからそうなのかな」と思っているだけ。

でも、大学で心理学を学んでも、社会人になって色々な人と関わってみても、やっぱり自分の心や母の気持ちが分からない。

それを知ったところで、少しでも慰めになるのか、今より幸せになれるのかも分からないのだけど。

小説も映画も、「家族」をテーマにした作品をよく観ている。でも、「仲良し家族のドタバタコメディ」みたいな雰囲気のものはあまり観ない。

結末がハッピーエンドでもバッドエンドでも、大なり小なり問題を抱えた家族が私にとっては「リアル」で、残酷で悲しい話でも狂っていても、そこにかすかな希望や愛を感じられる物語が好きだ。

とにかく「家族」とか「母親」に、長年執着している。


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そんな私だから、自分が子供を産んで育てられる自信は到底なくて、だから産むつもりはない。

(こういう発言をすると、子供を産んで育てている同世代のママ・パパを否定するように聞こえてしまわないかいつも焦るのだけど、決してそんな意図はない。ただ「私」が母に向いていないだけであって、子育てをしている人は立派だと思うし尊敬している。)

10歳以上も年の離れた可愛い妹弟をお世話するのは楽しかった。中学生の頃は「保育士さん」に憧れて職場体験もした。大学生の頃はボランティアとしてフリースクールへ実習に行き、発達障害のある子や不登校になってしまった子供たちと2週間触れ合って、子供相手のみならず人との接し方についても学んだ。


当時小学生の妹弟と、20歳ごろの私


子供が嫌いなわけじゃなく、むしろ大好き。
自分が子供を産んだらどんな名前を付けようかとか、子育てをする自分を想像したりした時期もあった。

だけど、私がこんなに「母の愛」に執着しているようでは、私自身が母になることはできないと思った。

だから、もう諦めた。

夫とも、そういう話をした上で結婚して、二人で暮らしていこうと決めた。


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母の話は、いつかnoteで話すつもりでいたけど、「母の日になったら話そう」とかタイミングを考えていたわけではなかった。

夫に、「もうすぐ母の日だよ!」と、義母の好きなものについて聞いたりすることはあったけど、私にとって「母の日」は、これまでは毎年、なんでもないただの日曜日だったから。

それでも、金曜日のバイトからの帰り道、ふと冒頭に書いた思い出が頭によみがえってきた。

家族と暮らしていたときのことなんて、覚えてることの方が少ない。だから他の人の思い出話を聞いたりすると、その鮮明さに驚かされる。食べたものや風景、それがいつだったかとか、そんなにはっきりと覚えていてすごいなぁ。

何かきっかけがあったりなかったり、私の場合は思い出そうとしていないときに限って、普段はまったく意識の外にある過去の出来事や言われた言葉が、急にリアルに浮かんでくる。

でも、もしかしたらそれも本物じゃなくて、私が頭の中で勝手に作った妄想なのかもしれない・・・と疑ったりもするけど。それくらい、思い出は何もかもウヤムヤではっきりしないものばかりだから。


それにしても、どうして急に思い出したんだろう。
他の思い出と比べたら、よく思い出す場面の一つではあるのだけど…。

バイト中、「お前馬鹿か」と電話で怒鳴られたからかな。

「明後日は母の日だ」と思い出したからかな。

またいつ、どの瞬間にどんな過去を思い出すかはわからない。だけど、それに対してどう意味付けしたりどんな行動に出るかは、今の私が決められる。


あの頃、私は母に抱きしめられたくてたまらなかった。

実は今でも、年上の女性と話している時は特に、何気なく肩をポンっとされただけでもドキッとして、なぜか嬉しくて涙が出そうになることがある。さすがに抱きつくなんて、気持ち悪がられそうだからできないけれど…(笑)

でも、そんな気持ちを抱いたときに、自分の本当の気持ちに気づく。


もうすぐ33歳になる私の中には、今でも10歳のままの私がいるのかもしれない。そしてそれは、これからもずっとい続けるのかもしれない。

だから、そういう部分も含めて自分なんだと、いつか認めたい。


私は、自分の子供を育てる「母」にはなれない。だけどその代わり、「子供の自分」を少しずつ成長させる「母」に自分がなろう。


カーネーションとその蕾


そんなふうに、この文章を書きながら最後に思った。


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最後までお読みいただきありがとうございました!
また次回の記事も読んでいただけると嬉しいです。


【過去の関連記事】
・noteを始めた理由、生い立ちについて(初投稿の記事)

・名前で呼ばれなかった子供時代


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