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【日本史6】室町史備忘録10

【日本史6】室町史備忘録9

永禄8年(1565)1月1日はイエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラとルイス・フロイスが幕府に新年の挨拶をした日。しかし布教の後ろ盾として期待していた将軍・足利義輝が5月に永禄の変で三好三人衆や松永久通らに殺害される。一時的に京を追われるが上洛した信長に畿内での布教を許可される。

新作歌舞伎《刀剣乱舞 月刀剣縁桐》感想(主に義輝と三日月宗近のこと)

9か月前

文禄3年(1594)1月4日は医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)が88歳で死去した日。道三は正親町天皇・将軍足利義輝・織田信長や毛利元就など戦国大名の診療した医師。医学書「啓迪集」や「雲陣夜話」など数多くの著書を残した。また医学校「啓迪院」を創設し後進を育てることにも力を注いだ。

天文21年(1552)1月2日は南近江を治め幕府に影響力をもった六角定頼が亡くなった日。兄氏綱が病死すると禅僧だった定頼が還俗し家督を継いだ。幕府の中枢に関与して将軍足利義晴や義輝の擁立に貢献し管領代として後楯となる。定頼は六角氏の最盛期を築き畿内に進出してきた三好氏とも争った。

永禄8年(1565)12月2日は覚慶(足利義昭)が帰京のため上杉謙輝虎(謙信)に援助を依頼した日。5月に三好・松永らに覚慶の兄・将軍義輝が殺害され幕臣の手引きで監視されていた興福寺を脱出。近江へ逃れ諸大名へ幕府再興の御内書を発した。翌年には還俗し義秋を名乗り越前朝倉氏を頼った。

信長戦国歴史検定 11【31.32.33】

1年前

本能寺の変1582 第46話 7信長の甲斐侵攻 2信忠、諏訪進出 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

本能寺の変1582 第45話 7信長の甲斐侵攻 2信忠、諏訪進出 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

本能寺の変1582 第102話 13上総介信長 4道三の援軍 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

本能寺の変1582 第100話 13上総介信長 3三好長慶の下剋上 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

永禄12年(1569)4月8日は信長がイエズス会宣教師ルイス・フロイスに京都居住と布教を許可した日。理解者の足利義輝が討たれた後に京都を追われ4年ぶりの布教再開。キリシタン大名の高山友照(右近の父)らの尽力があったとか。権力者都合で保護されたり迫害されたり状況は変わるものですね。

永禄2年(1559)6月29日は将軍足利義輝が長尾景虎(上杉謙信)に鉄砲火薬調合法の秘伝書「鉄放薬方並調合次第」を贈った日。上洛後に腫れ物を患って坂本(大津)にいた景虎への見舞い品。もともと大友宗麟より義輝へ献上された秘伝書。景虎は義輝の信任厚く頼りにされていたことがわかる。

2022年12月20日(火) 久々?? に語呂合わせ系記念日が。

永禄9年(1566)2月17日は足利義輝の弟・覚慶が還俗し義秋と名乗った日。永禄の変で兄が殺害され覚慶は興福寺に幽閉。近江に脱出し還俗。越前朝倉氏に庇護され義昭と改名。信長と上洛し将軍に就任するも対立し追放。関白秀吉に臣従し将軍職辞任。僧で終わるはずの人生が兄の死から激動すぎて。

本能寺の変1582 目次中 光秀という男 7 美濃の争乱 119~123 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』

10か月前

元亀2年(1571)2月11日は鹿島新當流を開いた塚原卜伝が死去した日。将軍足利義輝などにも剣術指南をした剣豪。囲炉裏端で食事中の卜伝に若い頃の宮本武蔵が斬りかかり鍋の蓋で刀を受け止められた創作逸話がある。卜伝死後に生まれた武蔵と戦わせたいと後世に思わせるって面白いなと思います。

永禄元年(1558)6月7日は朽木谷に潜伏中の将軍足利義輝に朝廷から永禄改元の通知が届いた日。室町時代は幕府が関与して改元することが通例だったが三好長慶に追われていた義輝は3ヶ月以上も改元を知らされていなかった。このため元号として弘治をまだ使っていた義輝は朝廷に抗議したという。

永禄12年(1569)4月14日は将軍足利義昭が再興された二条御所へ入った日。前年に信長の助力で上洛し将軍に就任した義昭は本圀寺を居所とした。しかし1月に警備の隙を狙った三好三人衆による本圀寺の変が起きた。このため信長は義昭の兄義輝の二条御所跡を拡張し防備の整った御所を造営した。