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本能寺の変1582 第100話 13上総介信長 3三好長慶の下剋上 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第100話 13上総介信長 3三好長慶の下剋上 

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三好長慶が軍勢を率いて上洛した。

 同、天文二十二年1553。
 八月。
 京である。
 三好勢が攻め寄せた。
 その数、二万五千。
 大軍勢である。

  八月大
  一日、乙亥(きのとい)、天晴、巳(み)下刻(11時頃)、雨降る、
  早々より、三好筑前守人数、
  其の外、河内・和泉・大和・摂津・紀伊等人数、二萬五千計(ばか)り、
  上洛と云々、

長慶は、将軍義輝と対立していた。

 義輝は、船岡山に本陣を構えた。

  武家、辰下刻(9時頃)、御出陣、舟岡に御座候、

 幕府勢は、霊山城に立て籠もった。 

  然るところ、東山霊山御城、松田監物・三寶院衆・山中の磯谷等これを
  持つ、

三好軍が霊山城を攻撃した

 猛攻が始まった。
 寄せ手にも、被害が出た。

  今村紀伊守人数(三好方)、取り懸けこれを責む、
  今村源七以下五、六人討死と云々、
  其の外、十五、六人手負いこれ有りと云々、

幕府軍が敗れた。

 霊山城、落城。 

  但し、松田監物、生害と云々、
  御城、放火しおわんぬ、
  御無念の至りなり、

  其の外、下大宮通りより、
  其の西、又、二通り三手に諸家勢、上りおわんぬ、

義輝は、山中へ逃げた。

 杉坂へ落ちた。

  武家、山中へ御座を移さるゝと云々、
  其の外の人数、山上へこれ引き取り、
  下衆、蓮台野まで罷り向かふ、

細川晴元は、戦わずに、撤退した。

 晴元は、義輝に与していた。

  晴元衆、此方詞(ことば)に相違ひ、一戦に及ばず引きおわんぬ、

長慶は、将軍義輝を追放した。

 山科言継は、この戦いの一部始終を見ていた。
 歴史の目撃者である。

  次、諸勢、打ち廻り、
  東、万里小路、
  中は、室町、
  西は、油小路を下へ引きおわんぬ、
  京中は、陣取りせざるなり、

  東の衆、予(言継)、見物す、
  十河、其の外、河内・紀州衆、一萬計(ばか)りこれ有り、
  大和衆、五千、未だ付(着)かずと云々、
  言語道断の見事(見もの)、驚目者なり、

  此の如くの人数、御敵、捕らえられ、
  残し増敷(まじ)き為體(ていたらく=有様)なり、
  是れ、偏(ひとえ)に、上野民部大輔(信孝)悪行なり、
  言語不可説、々々々、
                (「言継卿記」天文二十二年八月一日条)

長慶の下剋上である。

 戦国時代である。
 権力の主体は、上から、下へ下へ。

  将軍 → 管領 細川氏 → その被官(家臣) 三好氏

信長の下剋上は、丁度、この20年後に起きる。

 すなわち、元亀四年1573。
 七月。 
 将軍義昭を追放。
 義昭は、義輝の弟である。

 歴史は、繰り返す。
 肝に、銘ずべし。

義輝は、山中を彷徨った。

 船岡山 → 杉坂 → 山国 → 龍華

  二日、丙子(ひのえね)、晴
  武家は、杉坂に御座と云々、

  五日、乙卯(きのとう)、陰、午刻小雨降る、
  申の刻(16時頃)より終夜雨降る、
  武家御所は、山国通られ、
  龍花へ移らるゝと云々、
  前右京兆入道(細川晴元)、同御供と云々、

長慶は、義輝に従う者たちの領地没収を宣言した。

 これを聞きつけた従者たちは、急ぎ、都へ戻った。

  十四日、
  昨夜、高倉新亜相、上洛の由候間、罷り向かひ、見参す、
  龍花に於いて、祗候の者、諸知行分、
  三好、相渡すべからざるの由、申し候間、此の如しと云々、
  義利に違ひ、面目を失ふの由、申し候ひおわんぬ、

義輝に、付き従う者四十人。

 そのため、斯くの如し。
 これでは、幕府として機能できない。

  奉公衆も、前(さきの)御供の時、百廿人なり、
  只今、祗候の輩、四十余人これ有りと云々、
  大概、上洛すと云々、
  大樹(義輝)、一向(全く)、人無しと云々、
  御不運の至りなり、
                          (「言継卿記」)

義輝は、朽木へ落ち延びた。

 義輝は、ここで、五年ほど過ごすことになる。

  三十日、
  義藤(義輝)、近江龍華ヨリ、同国朽木ニ徙(うつ)ル、
                          (「史料綜覧」)

長尾景虎が上洛した。

 同、天文二十二年1553。
 秋。
 後の、上杉謙信である。 
 これが、最初の上洛である。
 謙信は、この後、永禄二年1559に、二度目の上洛を果たす。

  先度、長尾景虎、御覧せられ候、
  御劔・御盃たひ候につきて、
  別して、奉公いたし候べきよし申し候、
  神妙に、覚しめし候、
  殊に、長々、在京し候、
  御感の事にて候由、能々、仰せきかせられ候べく候、
  かしく、

     広橋中納言(国光)との
               (「後奈良天皇女房奉書」「歴代古案」)

  
九月
  
是秋、越後守護代、長尾景虎、参内ス、
  之ニ天盃、御劔ヲ賜ヒ、越後及ビ隣国ノ敵ヲ討タシメラル、

  十一月
  十三日、長尾景虎、和泉堺ニ至リ、本願寺光教(証如)ニ物ヲ贈ル、
  尋(つい)デ、景虎、紀伊金剛峯寺ニ詣ス、
                          (「史料綜覧」)

 ⇒ 次へつづく 第101話 13上総介信長 4道三の援軍 


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