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本能寺の変1582 目次中 光秀という男 7 美濃の争乱 119~123 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』

目次中 光秀という男 7 美濃の争乱 119~123 

119 美濃は、頼武派と頼芸派に二分された。   
   光秀の明智氏は、頼武方に与した。   
120 斎藤利良は、頼武とともに越前へ逃げた。
   越前の守護は、朝倉氏である。
   頼武は、孝景の妹を妻とした。
   光秀は、越前と関係が深い。
121 土岐頼武が美濃の守護になった。
122 土岐頼武に、嫡男頼純が誕生した。
   美濃は、大乱となった。
   頼武は、行方知れず(没落)。
123 長井長弘・新左衛門が美濃の実権を奪取した。  

目次  1~317
目次大 1~317

目次大 光秀という男 92~123 
目次中 光秀という男 92~123
目次小 光秀という男 92~123


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。

          ⇒ 次回へつづく   

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