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【小説】死ンダ君モ愛オシイ 第16話

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 昼間は蕎麦を食ったし、奈津美なつみはどうせ飲む気満々だろうから、安めの居酒屋にした。こいつが相手なら特別いい店を選ぶ必要もない。オフィスから少しだけ離れたビルの二階にある、大衆居酒屋「ちょ、呑めよ」。ここは全席半個室で、店内は適度に賑やかだから、あまり改まった空気になることもなく話しやすいのでは、と考えたのだった。奈津美は初めて来た店だったようだが、カジュアルな雰囲気がお気に召したらしい。まあ、こいつはどこでも気に入るのだ。
 角の半個室に案内され、細い廊下を挟んだ向こうの席は空いていた。絶好の環境に、一矢いちやは思わず拳を握った。そんな一矢の気持ちも知らず、奈津美はメニューを眺めている。
「『ちょ、呑めよ』ゼロ円ってなに?」
「なんか、店員が心を込めてセリフを言ってくれるらしい」
「あはは、いいね! 酒が回ってきたらそれ、頼もう」
「お願いだからやめてくれ」
 結局、普通に生ビールをふたつ注文し、つまみは適当に奈津美に選ばせた。
「一矢レバー大丈夫だっけ? レバニラあるけど」
「いや、レバーは苦手だ。絶対頼むな」
「え、そこまで? いいけど……」
 瞬間的に具合が悪くなりかけたが、奈津美の楽しそうな顔を見ていたらすぐに気が緩んだ。どうしよう、余計な話なんかしないで、こいつと楽しく酒が飲みたい。自分が求めているのは、そっちじゃないのか?

「で、どうなの?」
「どうってなにが……」
 乾杯するなり、奈津美は調子を伺ってきた。前回会った時は只管ひたすら大丈夫と言い張ったが、今はなんとなく答えづらい。嘘はつきたくないが、大丈夫というのも嘘ではない。でも、前回とは少し、大丈夫の重さと質が異なる。
静流しずる君と会ったんでしょ? 優しいよね、彼」
「ああ、そうだな」
 もう二回も会ったとは、なんとなく恥ずかしくて言えなかった。なぜ恥ずかしいのかは、自分でもよくわからないが。
「奈津美もあいつと仲良かったのか?」
「うん、知宏ともひろが大変だった時に、一緒にそばにいたからね」
「ああ……」
 その様子を想像しながら、一矢は自分の中に情報が溢れかえって、今の問題が何なのか、目的は何なのか、見失いかけていた。佐倉さくら、奈津美、静流、アズサ、佐倉の両親、そして自分。話の切り口が多すぎる。
「俺は……知らなかったからさ、佐倉が苦しんでいた時のこと。いや、知ってはいたが、深入りできなかったというか」
「うん、それは一矢なりの優しさだったと思うよ。自然に黙ってそばにいてくれたのが、知宏の支えにもなってたと思うし」
「でも、こんなに長い間苦しんでいるなら、少しは話を聞くべきだったな」
「うん……どうかな……」
 意図した方向ではなかったが、この話題も一矢にとっては重要だった。奈津美は俯いて、軟骨のから揚げを静かにつついている。小さな欠片を口に入れてから、斜め上を眺めて当時を思い出しているようだった。
「こんな……飲みながら話すことでもないと思うんだけど……」
「うん」
「無理心中だったのよ。お母さんの首を絞めた後、お父さんは首を吊って」
 当時、心中ということは誰かから聞いていたが、詳しい事情は聞いていない。というか、聞かなかった。佐倉が自分の口で「心中」だと言ったことはなかった気がする。今思えば、納得していなかったからだ。警察の捜査が少し複雑だったようだから、単純な心中ではなかったのかとも思ってはいたが、一矢の知らない、その無理心中への過程も、佐倉の深い傷になっているのだろう。
「お母さんを殺したのはお父さんだった。でも、お母さんも元々死ぬつもりだったみたいで、遺書を残してたの。『愛する人とともに死にたい』……っていう内容の」
「その愛する人っていうのが、父親ではなかったってことか」
 前に奈津美から聞いた話の「愛人」の存在を考えると、そういうことになる。
「うん、だから多分、遺書を見つけたお父さんが逆上して、結果的に心中になったっていうのが、警察の見解」
「それで佐倉が『愛人に殺された』っていうのは、まあ、わからなくもないが、あいつ、毒を盛ったとか言ってなかったか?」
「うん……お父さんがお母さんを殺したなんて、思いたくなかったんだと思うけど……実際、お母さんは死ぬつもりで薬を大量に飲んでたみたい。全然、致死量ではなかったんだけどね」
「なんでそれがあいつの中で毒殺になったんだろう」
「どうしても、犯人を愛人ってことにしたかったんだと思う」
 一矢は深い溜息をついた。なんて心痛い話なんだ。そして、今まで十年間も、知らずにそばにいた自分が信じられない。
「でも……静流はその相手のこと、愛人ではなかったと言っていた」
「うん。多分、知宏もわかってる」
「そうなのか……」
 佐倉の顔が頭に浮かぶ。その顔は爽やかで軽やかで茶目っ気のあるものばかりで、遥か昔の苦悩の顔はほとんど思い出せなかった。ずっと、あの陽気な顔の裏に潜んでいたのだ。見えないところで血涙けつるいを流しながら、他人の心配なんかしていた。今更こんなことを知ってしまって、これからどう接すればいいかわからなくなってしまう。
「まあ、私から一矢に話していいものか、悩んだんだけどね。でも、最近知宏時々こぼすようになった気がして。一矢もほんとのこと、知ってた方がいいんじゃないかと思ったの」
「そうか……。聞いてよかったよ。ありがとう」
 そう言って、一矢は箸を手に取り、だし巻き卵を摘んで小皿に置いた。特に食べたい気分でもなかったが、手持無沙汰で意味もなく大根おろしを卵の上に乗せる。

「失礼しまぁす! 追加のお飲み物いかがですか?」
 突然、威勢のいい店員に声を掛けられ、ふたりともほとんどジョッキが空になっていたことに気がついた。こんな話をしながらも、しっかり酒は飲んでいたらしい。
「あ、じゃあ……」
 奈津美は焼酎ロック、一矢はハイボールを注文して、少し空気が変わった。話は想像以上に重かったが、ちょうどキリがいいタイミングで店員が現れたので、もう深追いはしなくていいだろう。
「そういえば、なんか私に話したいことがあったんだっけ?」
「ああ……」
 先程とは打って変わって、いつもの明るい表情で奈津美が尋ねてくる。暗くて重い雰囲気を払おうと気を遣っているのだろうが、一矢が話そうとしていたことも、決して明るい話ではなかった。
「こないだ……サンドイッチ作ってくれただろ。美味かった。ありがとう」
「え? やだ、そんなこと?」
「ああ、うん、まあ」
 実はさっきまで忘れていたが、ふと思い出してよかった。あの時は奈津美の気持ちが素直に嬉しかったのに、このまま礼も言わずに佐倉のことを探ろうとしていたなんて改めて自己嫌悪に陥る。
「ただの普通のサンドイッチだったでしょ。それでもコンビニよりかはマシかなって」
「いや、ほんとに美味かったし、それに……」
 嬉しかった、となぜか言えなかった。後ろめたさが残っていて、調子がいいようなことを口にしたくない。言葉が出ない一矢を奈津美は不思議そうに見てから、微笑んだ。
「ふーん? そうか、また気が向いたら作ってあげるよ」
「ありがとう」
 色んな気持ちを込めて、一矢は礼を言った。もう、やめよう。知らなくていいこともあるはずだ。この夫婦とは今までもいい関係でやってきたし、これからもそうありたい。佐倉は変わったわけではないのだ。勝手に自分が佐倉を見る目が変わってしまっただけで、あいつはいつも通り、今まで通りだったはずだ。自分が知っている佐倉を信じたい。今日、奈津美から初めて聞いた暗然たる事実はあったけれど、だからといって自分の前での佐倉は偽りを演じていたとは思えない。深淵を覗かせないように、多くの無理はしていたであろうが、その苦しみを偽りとは言い表したくなかった。

「え? ほんとに話ってそれだけ?」
「ああ……うん……」
「ほんとに? 聞きたいことがある、みたいなことも言ってなかったっけ?」
「そうだったかな……」
 もう佐倉とアズサのことを聞くのはやめようと決意したものの、代わりの話を考えていなかった。あからさまに怪しむ目でこちらを見てくる奈津美に、気まずく視線を逸らす。
「あ! わかった。あの子を撒きたかったからあんなこと言ったの?」
「木橋? ああ、いや、そういうわけじゃ……」
 言ってから、適当にそうだと言っておけばよかったと後悔した。
「ふーん、変なの。話そうと思ったことがあったけど、気が変わったのかな」
 鋭い。全くその通りで、一矢は思わず苦笑した。
「まあ、話したくないことを話さなくていいけどさ、あんまりひとりで思い詰めないでよね。私もだけど、知宏も、静流君だっているからね、今の一矢には」
「うん、ありがとう」
 佐倉のことを疑ったら、この三人全て失うことになるのでは? そんなこと、考えるのはやめよう。冷静になってきた。やっぱり、頭が少し壊れかけていたから妙な考えに固執してしまったのだ。落ち着いて考えたら、大したことではなかった気がしてきた。アズサが絡んでいると思ったら、どうも自分を見失ってしまう。大丈夫だ、なにもない。酒を飲んで冷静になるってことも、あるんだな。

 元気な声に見送られながら店を出て、階段でゆっくり一階に下りてから、外に出るとだいぶ冷え込んでいた。
「そういえば、もうすぐ命日なの」
「ん?」
「ご両親の」
「ああ、そうか」
 そういえば、この時期だった。一矢も通夜には参列したから、その日のことをよく覚えている。夕方から冷たい雨が降り出して、悲しみに追い打ちをかけるようでとても気の毒に思った。喪服の肩を濡らした佐倉が、目を腫らして震える唇で「ありがとう」と言っていたのを思い出して、一矢は再び胸が痛くなった。
「いつだっけ。俺も、線香をあげにいきたい。十年も経って、今更、変かな」
「そんなこと、ないと思うよ。11月5日、来週の火曜。当日じゃなくてもいいしね。土日にでも、久しぶりにうちに来てよ」
「ああ、そうだな。佐倉とも話してみる」
 気をつけて帰れよ、と駅で別れたのは10時過ぎ。最近、平日から飲んでばっかだなと思いながら、まあ、飲みたくもなるよ、と心の中で自分を慰めた。人と話す時間は必要らしいと静流に出会ってから気がついたし、適度な酒は胸の中を柔らかくしてくれる。今更自分も、人間らしくなってきたのかもしれないなんて考えながら、一矢は駅の階段を上る。

 11月5日。それはアズサと初めて出会った日。夕日の当たる歩道橋の上で、真っ黒な服に身を包んで笑っていたアズサを思い出す。もう、あれから、五年経つのか。



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