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いまはあなたが遠くても

私は母と仲が良くありません。
仲が良くないといえば大したことはなさそうな感じがするけれど、ある事情から接触を避けている、というのが実のところです。
母との間には幼少期からの大きなわだかまりがあり、ある時から母と直接やりとりをすると、精神的なバランスを崩してしまうことが増えたのが原因になっています。
自分が幼少期に負った心の傷がトラウマとなり、それが母にも問題があったためだとわかったとき、お互いのために母にもカウンセリングを受けてほしいと頼んだことがあるのだけれど、そんなものを受けるくらいなら死んだと思ってくれたほうがマシだという返事が返ってきたので、それから長い間、絶縁状態が続いていました。
幼少期、私は父方の祖母に預けられて、母は2番目の父とともに新しい生活を始めようとしていました。
弟は引き取ったものの、私は引き取るつもりが最初はなかったことを知ったとき、私は捨てられたのだと強く思いました。
そして高校生の時、あまりにも門限を破ってバンドの練習ばかりしている私を家から締め出そうとした母と口論になり、「自分だって好き勝手してきたのに私ばっかり何よ!」と言い返したとき、「私はあなたが可哀想だと思ったから……」と言って口ごもったとき、強烈な絶望感に襲われたのを昨日のことのように思い出します。
実の父と母の馴れ初めや、結婚に至るまでの話もそれまでに聞かされていたし、ああ、私は愛を知らずに生まれた子だったんだと思うのに、「可哀想だと思ったから」という言葉は十分すぎるくらい重かったのです。
それでも子供というのは不思議なもので。
もしかすると私だけかもしれないけれど、やっぱり母に愛されたいんですよ、いくつになっても。
一番愛情を注がれなければならなかった時期にその手元を離れたのはやはり大きかったのかも知れません。
心の中にはいつも穴が空いていて、どんなに誰かから愛を与えられてもこぼれてしまう。
それはきっと、母から愛されることでしか埋められないのだと、今はわかります。

最終的に絶縁状態になったのは、自分が心を砕いたことをまるごと拒絶されたことがきっかけでした。
もう20年くらい前のことだったか、母が銀座にお店を出すことになったとき、いろいろアドバイスして欲しいと言っていたのに、なんの相談もなく条件の悪い物件を決めてきてしまい、その条件の中でどうにか上手くやれるようにと、いろいろお膳立てをしたにも関わらず、1週間前に「こんなの出来ない」と言われてしまったとき、この人についていってはいけないと思いました。
お店の開店のことを相談していた方に「だめだと思ったら離れていいのよ、それがたとえ親であっても」と言われていたのは大きかったかも知れません。
それからというもの、母とは距離を置くようになり、連絡を取るときは母と仲の良かった伯母を通じてしか、やりとりをしなくなりました。

8年前、その伯母が膵臓がんで亡くなり、私は母と連絡を取る手段を失うことになりました。
伯母が入院をしていた頃、月に1度お見舞いに行くのにも、母とかち合わないようにしてもらったり、気をつかってもらいながらしか出来ず、いつもなんだか心苦しい思いでいました。
伯母のお見舞いの日、いつものようにミネラルウォーターとお花や食べられそうな果物などを持参して病室を訪れると、ひとしきり嬉しそうに私にお礼を言った後、伯母は私に切り出しました。
「あなた、お母さんとはこれからどうするの?このままじゃいけないような気がして。」
母と私の間を取り持ってくれていた伯母は、自分が亡くなってからのことをとても気にかけていました。
その時の私の答えは、このまましか出来ない、というものでした。
また会うようになったとしても、すぐに自分を傷つけるようなことを言い出して、私が心のバランスを崩してしまうことが目に見えていたからです。
だから、伯母が亡くなるときには立ち会えなかったし、伯母のお骨が帰ってきたときも、会いに行くことは叶いませんでした。
伯母は白菊会に献体の登録をしていたので、葬儀こそなかったのですが、お骨が返ってくるときにちょっとしたお別れ会が開かれるので、弟からは来るように言われたけれど、やっぱり行けなかったのです。
怖かった。母に傷つけられることが。
また何年も苦しまないとならないのかと思うと、それだけで涙が出そうで。
でも生前、伯母は私に言いました。
「あなたはこのままひとりでいるつもりなの?それでもいいかもしれないけど、ひとりは……なんていうか、怖いよ。」
私があることからオーバードーズをして病院で目が覚めたときに、「ひとりで生きる覚悟をしないでどうするの!」と叱咤した人がこぼす言葉とは思えないようなそのひとことは、今でも重く重く、心の中にとどまっています。

そんな母と再びやり取りが始まったのは、コロナ禍になってからのことでした。
マスク不足で日本中の人たちが困っていた頃、手作りマスクが流行りましたよね。
伯母の遺品整理をしていたとき以来初めて、母から荷物が届き、なんだろうと思ったら「マスクは足りていますか?」とひとことだけ書かれた手紙とともに、母が手持ちの手ぬぐいや浴衣生地などで作った手作りのマスクがたくさん入っていました。
私は家にこもってばかりいたけれど、実際マスクをあまり持っておらず、すぐに使えるものが届いたのはとてもありがたかったのを思い出します。
母はその後少しして、スマホに携帯電話を変えたのか、LINEの友だち登録があったりして、自分はどうするかしばらく悩んだりもしました。
コロナ禍に入って、派遣の仕事を辞めて休養しながら、フリーランスの仕事のみを細々としていた頃で、友達ともそうそう会えなくなり、少し寂しかったのかも知れません。
半年ほど、表示される名前に戸惑いながらそのままにしていたのを、「友だち追加」のボタンをタップして、連絡を取ろうと決めました。

きっかけはほんの些細な事でした。
コロナ禍になってからというもの、友達とお酒を外で飲むこともなくなったので、ふと友達にお気に入りの食料品などを贈ることを思いつき、仲の良い友達にお取り寄せの食べ物などを贈り合うようになっていました。
みんな酒豪なので、みんなと会ってお酒を飲んだと考えれば、ギフトは決して高いものだとは思えなかったのです。
いろんなものをやり取りして、お互いにありがとうって言い合ったり、喜んでいるSNSの投稿を見たりすることが、友達との結びつきを感じられるひとときに繋がりました。
それで、思ったのです。
ああ、お母さんになにか季節の食べ物を送ろうと。
最初に送ったのは、伯母が大好きだった重慶飯店の月餅などのお菓子と、点心のセットでした。
伯母の仏前に供えてください、というひとことをLINEで送って。
そんなふうにしていろいろなものを送りました。
伯母が病床で唯一食べることの出来た、高糖度のミニトマトや、生前大好きだったさまざまな果物。
季節がめぐり、旬のものが出てくればそれを送ることを欠かしませんでした。
伯母や祖母が大好きだったコーヒーとコーヒーゼリーの詰め合わせなんかも送りましたっけ。
そうすることで、わずかではあっても、母と接点を持つことが出来たのは、私にとって心温まるものでした。
毎回、ありがとうと連絡をくれるだけで、十分すぎるくらいでした。

8月、ちょっとしたことで精神的にバランスを崩し、仕事を2週間休みました。
その時、ひどく落ち込んでしまい、悩み事をつらつらと書いたものを母に送ってしまったことがありました。
すると数日後、思いもよらない返事が来ました。
それは、私が大人になって初めて見た、あの人の「母親としての顔」だったのです。
そんなことを伝えたところで、強い言葉で突っぱねられるだろうとばかり思っていた私は、心底びっくりして、その答えに感謝を表すしかありませんでした。
そして、なにかまた送ろうと思ったとき、ひとつ気づいたことがあったのです。
私は、母の好きな食べ物をあまり知らなかったんです。
若い頃、しょっちゅう買っていたあんドーナツなんて、年を取ったら重たくて食べられないだろうし、歯がたたないほど硬いげんこつせんべいはもう硬くて食べられないとだいぶ前に言われたのを覚えていました。
それ以外のものは、全然知らなかったんです。
あんなに毎日、食事を作ってもらっていたのに。
嫌いだったものは覚えています。
セロリとか、いちじくとか。
きっと私と弟、ふたりの子どもたちが好きだったものや、パートナーの好きだったものを作ることを心がけていて、自分の好きなものの話はあんまりしなかったんだなあと思ったのです。
それで、これまで長いこと一緒に生活をしてきたことがあるのに、なぜ私は母の好きなものを知らないんだろう、できることなら教えて欲しいと連絡をしました。
すると数日後、手紙が届きました。
たぶん自筆のものが届くだろうと思っていたので、それには驚きはしませんでしたが、ひとりでしっかり覚悟を決めて生きて行くように、助けてあげることは出来ない。ごめんなさいね、としたためられていました。
きっと母も、生前に伯母に同じことを言われたのだろうなと思いました。
そして最後に、この数年、果物を欠かさなかったのが嬉しかった、それが送られてくることが嬉しかったのよと書かれていたのでした。
本当に好きなものはなんだろう、という謎は解けないままではありますが、果物ってちょっと贅沢なものですもんね。
母は私を捨てたかもしれないけど、その後きちんと育ててくれたことは事実で、それにはとても感謝しているし、女性として尊敬できる部分もたくさんある人です。
親孝行ではないけれど、お互いが傷つかない形で、最後まで繋がることができるのなら、私はそれを止めずに送り続けようと思います。
心に刺さった棘はいつまでも取れずに傷むけれど、それでもこのまま。
最後にお互い、ありがとうって言えるように。
晩年と言われる年令になった母の毎日が穏やかなもので満たされるように。

あ、母からLINEが。
丹波篠山の友人に頼んで送った黒枝豆が届いたようです。
蒸し焼きにして早速食べますと弾むような文面で。
蒸し焼きかあ。やっぱりわかってるなあ。
私も届いたら、フライパンで蒸し焼きにしようっと。


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