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苦しくてつらいのが恋だと思っていた

小さな頃、祖母の家に泊まりに行くと、夕食の時間が早かったので、食事を食べてからテレビを見たりして、茶の間でのんびりするのが習慣になっていました。
祖母はよく戦争の頃の話をしてくれて、時折ふと思い出したように、部屋の奥にある仏壇の下から、古ぼけたお菓子の缶を出してきました。
その缶の中にはたくさんの小さなモノクロの写真が入っていて、戦時中出征前に撮影した兄弟の小さな写真を見せてくれるのです。
まだ写真をプリントするのが高価だった頃だからなのか、それぞれの写真は大きくても名刺くらいのサイズで、キリッとした表情で軍服を着た若い男性がそこには写っていました。
そして同じ缶の中には、ひときわリラックスした雰囲気の和装の男性が、緑に溢れた庭の見える、籐で出来た窓辺のアームチェアに座った写真が一緒に入っていました。
ひと目で戦時中のものではない、それらとは別な、特別な写真なのだということが幼心にもわかる、その人にとっての日常の一コマを収めたもので、それを愛おしげに見て、祖母は必ずいいました。
「いい男でしょう。おじいちゃんよ。」
祖父は私達が小さいときにはすでに他界していて、写真でしか見たことがなかったけれど、祖母や母から伝え聞く祖父の話は、とても素敵で立派な人だったということが伝わってくるものでした。
私が小学校の高学年くらいになったとき、またその日もふと思い出したように、祖母はそのお菓子の缶を出してきて、これは弟の、これは兄の、と写真を見せて説明したあとで、祖父の写真を見せてくれました。
2月の同じ日に生まれた母と伯母の誕生日には、三越に行ってふたりの新しい服を誂え、写真館で写真を撮影するのが定番のコースだったことや、祖父の仕事は家業だった大阪の廻船問屋だったことを、いつものように話したあと、母がまだ小学校3年生のときに祖父が亡くなり、祖母は和裁の仕事1本で二人の娘を育て上げたのだという話を聞きました。
思春期に差し掛かっていた私は、祖父と祖母の馴れ初めやどんな恋をしていたのかが気になり、祖母に聞いたことがあります。
「大恋愛だったのよ。東京と大阪で離れていたし、いい男だったもの。」
そういって静かに、いつも微笑む祖母に、なぜ再婚しなかったの?と訊いたことがありました。
ふと何かがこぼれてしまったように、祖母が話す本音にハッとさせられました。
「恋愛はつらい。つらいから二度としたくない。恋なんてするもんじゃないよ。」
まるで私に言い聞かせるようにそういう祖母の苦い表情が、今でも思い出せます。
子どもだった私と弟に、本当の細かな事情は包み隠して、幸せだった日々だけを穏やかな表情で話す祖母が、ぽろりとこぼした本音は、思春期の私をドキッとさせるのには十分すぎるものでした。
祖母と祖父の間に、一体何があったのか。
その時それは訊かないまま、長い年月が過ぎ、本当のことを聞いたのは私が高校生の頃のことでした。

祖母と祖父の馴れ初めは忘れてしまったけれど、祖母は祖父の妾だったと母から聞かされたのは、確か母が3度目の結婚で、その時のパートナーと破綻したときのことだったように思います。
大阪からわざわざ上京して、祖母のもとに足繁く通った祖父との思い出は、とてもあたたかなもので、クリスマスの朝に目覚めると、24色のクレパスが置いてあったことや、祖母が話していた誕生日のことなど、さまざまな話をしてくれました。
ただ、妾というのは、当然だけれど世の中の人から後ろ指を指される立場でもあり、そのせいで母はつらい思いをしたのでしょう、いつだったか「妾だけにはなりたくない」と話していたのを思い出します。
銀座のクラブでホステスをしていた女性にとって、金銭的に余裕のある男性に囲ってもらうことは、ある意味で安定の道でもあり、そういう人が多かった中でそれを嫌ったのは、過去のつらい思い出があるからなのだと私は思っています。
妾という立場でありながら、祖父が亡くなったときにお葬式を出したのは祖母だったのだといいます。
大阪の家とは実質関係を絶ってしまっていた祖父は、仕事のために大阪と東京を行き来しながらも、妾である祖母の元を自分の家としていたことが、そこからも感じられました。
祖母にとって、恋がつらいもので、二度としたくないと思うものであったことは、妾であったことを除いても十分すぎるものだったのだと思います。
二人の娘を抱え、ただ待つだけの日々。
大阪の祖父のもとに、自分から訪ねていくわけにもいかず、連絡もない中でただ胸を焦がしながら、帰りを待つ。
周りからは白い目で見られ、それでも祖父を愛することを諦められなかった、それでもいいと愛し続けた、祖母の強い想いを想像するだけで、愛を貫くことの苦しさが伝わってきます。

その後私は、中学生になるかならないかの頃から音楽に夢中になって、たくさんの恋の歌に触れるようになりました。
当時はまだレコード全盛の時期で、私は塾の帰りに必ずレンタルレコード店に寄り道して、お小遣いでレコードを借りてカセットテープを買い、それをダビングして聞きました。
そのなかで大切にしていたのは、歌詞カードを手書きで書き写すこと。
当時はコピーというとまだ1枚の単価が高くて、お小遣いをそれに費やすのが惜しかったのもあります。
オフコースやユーミン、杉真理さん、そして大好きな松本隆さんの書く歌詞を、まるで本を読むのと同じように書き写して覚え、それが今の自分の文章の基礎になっていると思っています。
彼らの曲に描かれる恋物語は、決してハッピーなものばかりではなく、切なくて苦しく、つらいものが多くて、その世界を疑似体験することは、恋に恋する思春期の女の子にとって、大切なステップだったと今でも思うのですが、そこに祖母の「恋愛はつらい。恋愛なんてするものじゃない。」という本音が重なったとき、恋愛は苦しいものという答えを出してしまうのに十分すぎる条件が揃っていました。
恋が苦しくつらいものというのは、ちょっとした呪いのようなもので、幸せな恋があることを知らないまま、ある程度の年齢になり、苦しいものを貫くのが本当の恋、という錯覚をしたまま、不幸な恋愛を続けていたように思います。
そんな呪いを解いてくれたのは、ある男性を好きになったときのことでした。
「幸せになっていいんだよ。ふたりで幸せになればいいじゃん。その恋の形がどんなものであれ、恋は幸せなものだよ。」
本気で誰かを想って知る、心がちぎれるような痛みや、胸を焦がすほどの熱い想いは、決して不幸になるためにあるものではないことを、そのひとことが教えてくれたのです。
ただ、問題だったのは、それをミスリードする形で教えられたことだったのですが、それはまた次の機会に譲るとしましょう。
恋は苦しくてつらいものと思っている人が、もしこれを読んでいるとしたら、どうか安心してください。
ちゃんと幸せな恋もあるし、そんな恋に巡り合うこともあるのだということを。
自分で自分に呪いをかけるほど、馬鹿馬鹿しいことはないと思うし、どうせなら幸せになれるマジックワードを自分の心のカギとして持っていたほうが、ずっとハッピーだと思うのです。

幸せで楽しい、素晴らしい恋を。
いくつになってもそんな自分でいられたら、きっと人生は色鮮やかになると思っています。


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