見出し画像

二月革命とフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑮

  二月革命の前後、「青鞜」という言葉が盛んに用いられ始めた。これは英語Blue stockingsの訳語であるが、以前にも少し触れたように、18世紀半ばの英国に実在した「ブルー・ストッキングス」という名の女性主催のサロンがその元である。彼女らはそれまで男性の領域とされていた学問や文芸を志したのだが、ここから意味が転じて、文筆活動に励んで新聞に投稿したり、政治改革を訴えたりする女性を「高飛車で常識外れ」だと揶揄するのに男性たちが「青鞜派Blue stockings」の語を使うようになったのである。サンドもまた、そうした「青鞜の女性」の一人とみなされていた。

・ジャガイモ飢饉、改革宴会、二月革命

 革命はなぜ起こったか。七月王政下のフランスでは、国王ルイ=フィリップの下で少数の特権階級が暴利をむさぼっていた。有権者数が1%にも満たなかったため、富裕な資本家が自らの利権を振りかざす政治がまかり通っていたのである。さらに1845年からは異常気象と伝染病により農作物が大打撃を被り、1847年にはアイルランドを中心として危機的なジャガイモ飢饉が発生、フランスでも作物価格が倍以上に跳ね上がった。芋は貧困層の主食でああったため、飢えた彼ら彼女らは抗議運動をますます活性化させる。
 中流階級は主に選挙法改正の要求を掲げる一方で、下層の労働者は賃上げや失業対策を訴えた。これらの運動に対し、当時のギゾー内閣は頑なに改革を拒んで弾圧を強めた。彼らが選挙権拡大に反対する論拠として挙げたのが、フランス革命期の山岳派による恐怖政治であった。愚かな大衆に従えば、またあのような混乱が訪れるというのである。そこで人々は、表向きは宴会と称して民衆を集め、席上で「改革万歳!」と政治批判の声を上げる方法をとった。「改革宴会」と呼ばれたこの集会は、新聞や雑誌を通して広まってゆき、変革への熱はとめどなく伝播していった。
 
 1848年2月21日、改革派の新聞『ルナショナル』は、「宴会」をパリのシャンゼリゼ通りで開催すると呼びかける。翌22日、悪天候にもかかわらず大勢の男女が広場に集まり、冷めやらぬ激情を持てあましていた。この時のパリの様子を、作家のダニエル・ステルンことマリー=ダグー夫人は臨場感あふれる筆致で書き記している。

空には灰色の重い雲が垂れ込めている。...宮廷がまだ、全く警戒せずに安らいでいる一方、パリは目覚め、不安で興奮している。全体を覆う動揺のただなかで、漠然とした危惧と期待に、それよりさらに漠然とした疑念がごっちゃになって、高まったり沈んだりしている。ただひとつ明確な感情が、みなの心を支配している。怒りである。

ダニエル・ステルン『女がみた一八四八年革命』

 民衆はその数を膨らませながら止まることなく行進し続け、やがて首相ギゾーと政治家たちのいる議場へとたどり着いた。内閣は軍に命じて人々を脅させ、それでも立ち去らない者たちには銃弾が浴びせられた。この日、二人の女性が政府軍により犠牲となった。このとき、人々の怒りは革命の松明となって、暗い過去との決別の道が照らされた。
 2月23日、バリケードを築いた民衆は政府との対決姿勢を明確に示した。国王側は正規の軍隊に加えて国民軍を動員、抵抗する人々に銃を向けるように指示した。だが、もともと中流以下の民衆から揃えられた国民軍は虐殺を良しとはしなかった。兵士の一部は銃撃を止め、反乱に加わっていた労働者たちと言葉を交わし始める。中には民衆と混ざって改革万歳と叫ぶ者もいた。兵士を抱きしめて、夫や兄弟を撃つなと頼み込む女たちの姿も見られた。国民軍の兵士たちは民衆の勇気に心を打たれ、次第に彼ら彼女らの側に正義を認めるようになっていった。
 人々はこの兵士たちに守られながら、政治改革を求めて宮殿へと歩みを進めた。この知らせを聞いた王は焦りギゾーを退任させると告げるが、一方で軍隊は数十人の労働者を虐殺した。怒りに震えた民衆は、翌24日も抗議の声を緩めなかった。ついに国王ルイ=フィリップは退位に追い込まれロンドンへ逃亡、共和派の詩人ラマルティーヌらによる臨時政府が建てられ、ここに共和政が復権した。

・第二共和政、青鞜派の女たち、「女性の声」

 さて、革命である。他の多くの人々と同様、サンドもまた驚喜して飛び上がった。彼女は足早にノアンからパリへと向かい、そこで民衆とともに歓声に包まれた。

 共和国万歳!パリには夢が、情熱が、同時に秩序と品位がみなぎっている。私は来た、そこに駆け付け、足元で最後のバリケードが開かれるのをみた。民衆は偉大で、崇高で、純粋で寛大だ。

サンドの社会主義者の友人へ宛てた手紙

 サンドは『民衆への手紙』と題する冊子をつくり、パリの人々は哲学者でも成し得なかったことを遂げたのだと、その知性と勇気を褒め讃えた。民衆たちはこれから、考え、話し、書き、そして投票して代表を選ぶ存在になるのである。3月19日、彼女は臨時政府により発行された『共和国広報』に記事を寄せ、自らを友愛を旨とするコミュニストであると宣言する。サンドは平和的かつ漸進的なコミュニズムの実現を目指し、暴力による独善的な変革を拒んだ。
 故郷ノアンに戻ったサンドは、「ノアンにおける共和国宣言」を発し、共和派の友人たちが新しい体制に加われるよう推薦した。3月25日には、パリの労働者と地方の農民が対立せず連帯できるよう、相互理解を促すパンフレットを出している。さらにこの数日後には、自身の利益しか考えない人のために、大半の民衆がろくに食事もとれず、日の当たらない仕事場で非道な労働をさせられている状況を非難し、特権の廃止、累進税の導入、無償教育や産業の民主的な発展を訴える記事を著した。
  並行して、サンドは女性解放についての記事も出している。サンドは言う、虐げられた民衆の中でも、とりわけ女性は無知や貧困に苦しめられている。彼女らの苦境を救うには、彼女らが自らの置かれた状況を自覚し、家族とともに改善を図っていかねばならない。

 一方その頃、ウジェニー・ニボワイエEugenie Niboyetという女性が、「青鞜派」の女たち、ポーリヌ・ロラン、シュザンヌ・ヴォワルカン、エリザ・ルモニエ、ジャンヌ・ドロワンといった面々ともに、新たな新聞を作ろうと試みていた。ニボワイエはブルジョワの生まれだが、サン=シモン主義やフーリエの影響を受け、労働者女性たちのための運動の必要性を感じていた。ニボワイエは革命の勃発を見て、彼女らの労働を支えながら教育し、共和国建設への参加を促そうと行動に乗り出した。
 3月20日、ニボワイエは新聞『女性の声』を創刊する。その時のことを、彼女は後から次のように振り返っている。

その日の終わりに私のサロンは演壇に変わり、私のアパートは講義室に変貌した。私は私の仕事の大きさに恐れをなした。そしてこれらの女性みなに助力を求めた。「私の」新聞という言い方をやめて、「私たちの」新聞と言った。...ある者は書記に、ある者は会計係になり、ある者は教え、ある者は組織した。われわれは失業した女工たちの仕事を手に入れようと努力した

ニボワイエ『正銘・女性の書』

 そこに集ったのは「青鞜」の語でイメージされる中流以上の女性だけでなく、サン=シモン主義に触れてきた何人かの男性、かつて『自由女性』紙に携わったプロレタリア女性たちなど、性別も階級も問われなかった。新聞の副題は「社会主義的」、「全ての女性の利益の機関紙」とされ、発刊の趣旨として「女性の精神的、知的、物質的利益がここで腹蔵なく語られる。この目的のために我々は全女性の賛同を得ることを望む」と述べられた。

 『女性の声』は四十六号まで刊行され、女性の教育、離婚を含む政治・社会的権利、労働問題などが一貫して追求された。創設メンバーの一人、ジャンヌ・ドロワンJeanne Deroinはサンドと同年代のプロレタリア女性である。二月革命勃発後、フランスで数百の女性のクラブが生まれたと言われるが、ドロワンもそのようなクラブに出入りし、臨時政府へ男女平等の法や女性の投票権を要求する活動を行っていた。彼女は女性の参政権が社会の自由と平等に貢献すると考え、3月28日には『女性の声』紙に次のような記事を著している。

知性ある人間には三つの生活、つまり家庭生活、個人生活、社会生活が必要である。最も高貴な魂の働きに新しい飛躍を与える社会生活を女性にもさせてほしい。これを圧殺するのは卑しむべき専制であり、社会的犯罪である

ドロワン『素朴な言葉』

・国立作業場、普通選挙、最初の分裂

 革命後、王政下で制限されていた言論・出版の自由が解放されるとともに、21歳以上の成人男性による普通選挙の実施が告知される。これにより有権者数は25万から900万まで拡大、第一回総選挙の日程は4月に定められた。対外戦争とそれに伴う内乱に苦しめられた半世紀前の反省を踏まえ、臨時政府は平和外交を行う方針を示した。加えて、ギロチンの恐怖を退けるためラマルティーヌにより死刑廃止が提案され、国内外で暴力が生じないよう予防線が引かれた。臨時政府の構成員のうち共和派は少数で、保守派から社会主義までがひしめき合う新たな体制は、当初から非常に不安定なものであった。
 市庁舎に詰め寄った労働者たちの圧力もあり、臨時政府は失業者の救済など労働の権利を保証することを約束する。まもなく、失業対策と銘打って、政府により国立作業場が開設された。これは当時は社会主義よりの政策とみなされていたが、実質は労働者の懐柔が目的で、彼らの連帯の力を削ごうと図るものであった。実際、政府の一員となった社会主義者ルイ・ブランは作業場の運営から排除され、左派の思想家プルードンもこの政策を批判した。労働者たちが次第に保守化してゆくのを感じ取り、左派のブランキやルイ・ブランは選挙の延期を求めるデモを計画した。他方、農村には社会主義者により土地を取り上げられるというデマが流され、農民は保守派やブルジョワの側に傾いていった。地方にいたサンドも危機を感じ、自由・平等の理念を守ろうと選挙運動を強めていく。

 この1848年の普通選挙も、依然として女性を排除するものであった。ドロワンやニボワイエらのグループは「女性の権利委員会」を開き、3月22日、市庁舎に赴いて「全ての人々の選挙」という普通選挙の原則を貫徹するよう訴えた。選挙の期日が迫る4月6日、ニボワイエは『女性の声』において、パリの著名人となっていたサンドを女性解放の代表者として挙げ、選挙に立候補するよう指名した。しかしサンドはこれを冷たく拒絶するのである。 
 なぜ彼女は協力を拒んだのか。同時期のサンドの記事には、次のように書かれている。「たとえ公的機関に何人かの能力ある女性が入ることによって、社会が多くのものを得たとしても、大部分の貧しい教育の欠けた女性たちは何も得るものはないだろう」、「男性が自由でないとき、女性が自由であることは出来ない。重要なことは、女性のみを解放するのではなくて、全ての人々の無知と貧困の隷従を廃止することである」。
 サンドはもともとサン=シモン主義やフーリエの性的自由を説く思想には否定的で、この派の女性たちとは距離を置いていた。同性代のフロラ・トリスタンにもサンドは共感せず、侮蔑とも取れる言葉を残している。「彼女は活動的で、勇敢で真摯な人だと思うが、高慢で、自らの意見が間違っていないと固く信じてしまっている」。加えてサンドは、まず女性には結婚や教育における平等が優先されるとして、政治参加は時期尚早だと考えていた節がある。女性が主体的に政治に加わるためには、女性を男に従属させる社会を根本的に変えることが必要である。サンドは、自身が考える社会主義、コミュニズム的な変革が第一で、その後に女性解放も遂げられると思っていたのだろう。

 サンドの拒絶により、1848年の青鞜派たちは分裂を余儀なくされた。ただし、これを以って彼女がフェミニストでなかったとするのは浅慮であろう。1842年にサンドが書いた手紙には、このように記されている。

あらゆる不公正の中でも筆頭は男女の関係で、不正、不条理に満ちている。市民法は女性の依存、劣位、社会的無価値について別の基準を用いる。わたしはこれについて10年間考え続けてきた

サンド

 サンドとニボワイエらとで、女性解放を切に求める点でさほどの違いはない。だがサンドは民衆あるいはプロレタリアの解放を優先したことで、行動における不一致が生じたのである。フェミニズムにおける、何を主題とするか、どの集団での連帯を図るかの葛藤は、この時に始まったと言ってよい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?