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ナポレオンとフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑥

・ナポレオン帝国、スタール夫人、ハイチ革命

 終わらない混沌の中で、一人の軍人が注目を集めた。ナポレオン=ボナパルトである。対外戦争、内乱の鎮圧において目覚ましい成果を上げた彼は、瞬く間に民衆の人気をさらい、1799年にはクーデターにより統領政府を樹立するまでに至る。ナポレオンは「従う女性」をモラルとした。彼が夫を亡くしたグルシー(コンドルセ夫人)と対面したとき、こう言ったとされる。「私は女たちが政治に口出しするのは好みません」。彼女はこう返した。「ごもっともです、将軍。でも女たちが首を斬られる国では、斬られる理由を知りたがっても当然ではありませんか」。
 ナポレオンは言論統制を敷いた。統領政府の成立後、まずサロンの女主人を含む上流の女性たちが攻撃される。彼女らはモラルがない堕落した女とされ、恐怖政治の時期と同じく「慎ましい女性像」が排除の手段となった。多数の新聞が発行禁止になり、いくつかのサロンは閉鎖させられた。彼はサロンから自分に歯向かう声が生まれるのを恐れたため、自分と対立しないもの以外は監視下に置いた。
 逆境の中、それでも抵抗を止めない者がいた。革命勃発のきっかけを生んだネッケルの娘であり、文学や哲学に通じて言論を業としたジェルメーヌ・ド・スタール Germaine de Stael、「スタール夫人」という名で知られる女性である。パリでサロンを主宰し著名になっていた彼女は、1800年、『文学論』を著してこう述べた。

男性は、女性を不合理な考えの持ち主にしたて、凡庸な存在と見立てるのが、政治的にも道徳的にも有益だと考えてきた。...啓蒙時代の悪は、よりいっそう多くの知性を得ることでしか正されることはない。...フランスでは、男性がこれまで、女性にふさわしい自立と自尊心を全面的に許せるほど十分に、共和主義者であることはできなかった

ジェルメーヌ『文学論』

 次いで1802年には小説『デルフィーヌ』を書き、結婚のあり方や離婚の可否を世に問うた。「啓蒙主義」の性別役割に基づき、家父長的な家族を再び模範としようと考えていたナポレオンには、ジェルメーヌの言葉は鋭い批判として突き刺さった。『デルフィーヌ』を出した二か月後、彼女に追放令が発せられ、パリに入ることが禁じられる。
 1804年、ナポレオンは国民投票により皇帝の座に就き、フランスは共和制から帝政へと移る。彼は大陸の制覇をもくろみ、他国を次々に侵略して支配下に置いた。1812年までにイギリスを除くヨーロッパの大半を征服すると、ナポレオンの野心は帝国支配を良しとしないロシアへと向かう。
 
 ナポレオンがヨーロッパ侵略に腐心する間、フランス植民地であったサン=ドマングにて革命が起ころうとしていた。この地でも1789年の革命勃発と人権宣言の知らせは衝撃をもって受け止められ、91年8月には黒人奴隷たちが蜂起する。このとき、奴隷を所有していた白人はイギリスと手を組んで反乱を抑えようとした。他方、イギリスと敵対するフランス本国は黒人を味方につけて植民地を維持しようと図る[7]。92年、本国政府は植民地の黒人に本国市民と同等の資格を認め、94年には奴隷制廃止を取り決めた。しかし共和制を廃して皇帝となったナポレオンは、再び奴隷制の再建をもくろんでハイチに派兵、1802年には奴隷制を復活させる。これにより彼は、革命期に黒人たちが得た権利を否定した。
 トゥサン・ルヴェルチュールToussaint Louvertureは「黒いジャコバン」と呼ばれていた。彼は奴隷の身でありながら反乱を指導し、1803年にナポレオン軍により捕らえられて獄死する。トゥサンの意志を受け継いだ人々は抵抗を続け、1803年末にはフランスを打ち破る。翌1804年、サン=ドマングは「ハイチ」として独立を宣言、初の黒人による共和制国家が誕生した。このハイチ革命を皮切りに、コロンビア、ペルー、ブラジルなどラテンアメリカの植民地が相次いで独立してゆく。

・フランス民法典、スペイン反乱、戦争と平和

 新たな市民社会の道しるべとなるべく、ナポレオンは民法典を編纂していた。この法典においては、革命の理念であった自由と平等、私有財産、家族の尊重などが記され、他のヨーロッパ諸国にも多大な影響をもたらした。ただし、ここで掲げ得られている自由と平等を享受できるのは、白人の男性に限られていた。既にみたように、ナポレオンは奴隷制を再建して黒人の存在を貶めている。民法典により、女性もまた貶められた。彼は述べる、「女性が自身の劣等性を忘れてしまったこの時代に、彼女たちの運命の支配者となる男性に服従せねばならぬことを率直に思い起こさせるのが大切である」
 法典にはこう記された。女性は娘のときは父に従い、結婚後は妻として夫に従うべきである。妻は夫の許しを得ずして財産を扱えず、訴訟を起こすこともできない。革命期に認められた当事者による離婚、妻が自ら法定に立ち、証言する権利など、多くの自由が奪われた。家の中で国家のために「良き市民」を育てる役目が、妻のすべてとなった。

 民法典の成立を尻目に、ジェルメーヌはドイツで作家のゲーテやシラーと交流して名をはせていた。その後フランスに戻った彼女は、『コリンヌ』を書いて女性の自立と才能の開花を謳い上げる。これによりジェルメーヌはさらなる名声を博し、圧制に対する文学の勝利と賛美された。
 さらに1810年には、ドイツの国民性を描いて諸国民の共存を願った『ドイツ論』を著す。当時フランスに支配されていたドイツへの共感が語られたこの作品に対し、ナポレオンはついに彼女へ国外退去の命を下した。ジェルメーヌは亡命を強いられ、ロシア、イギリスなど各地を転々としながらナポレオン批判を続けた。

 ナポレオンの侵略により、フランス革命の自由・平等の精神はヨーロッパ中に広まることとなった。皮肉にも、革命の精神は帝国支配に対する抵抗の原動力となり、各地で反ナポレオンの独立心が高まった。スペインではナポレオンの兄が王となったが、首都マドリードをはじめとして全国で抵抗運動が吹き荒れた。アグスティナ・アラゴンAgustina de Aragonは、22歳でナポレオン軍との戦闘に参加した。一度は捕縛されるも、彼女は脱獄してゲリラ戦を指導、スペイン反乱の象徴となった[8]。東方のロシアもまた、帝国フランスに反する動きを強めていた。

 1812年、征服地から集められた兵士によって大陸軍が編成され、夏にはナポレオンの指導の下ロシアへと侵攻する。だが強制的に徴集された人々の士気は上がらず、対するロシアでは外敵を前に愛国心が芽生えつつあった。ロシア軍は戦いを避けながら侵略者たちを疲れさせ、大陸軍がモスクワを占拠すると退却して街を焼き払った。焦土作戦と呼ばれるこの作戦により夥しい数の兵士と民衆が犠牲になったが、それでもナポレオン側に寝返る者はほとんどいなかった。他方、大陸軍は兵の糧を失い、極寒の冬がくると撤退を余儀なくされた。ロシア軍の追撃もあって兵力の大多数が失われ、ナポレオンは軍を置き去りにフランスへと逃亡した。
 女性たちの仕事は負傷者の看護など後方支援が主であったが、中には兵士として戦場に赴くものもいた。ナジェージダ・ドゥロヴァNadezhda Durovaは男装してロシア軍に加わり、侵略者との闘いを生き抜いた彼女はツァーリから勲章を与えられている。
 この戦いはやがて、ロシアの人々に「祖国戦争」として記憶されることになる。後にあるロシア出身の作家は、焦土作戦の悲惨さを前に民衆が愛で結ばれる理想を描き、世界にその名をとどろかせた[9]。レフ・トルストイ、『戦争と平和』である。

 ロシアでのナポレオン敗北以降、各国は同盟して対フランス帝国で結束した。1814年4月、パリで追いつめられたナポレオンが皇帝の位を降りるようを迫られたとき、ジェルメーヌは『黒人奴隷貿易廃止のために』を発表、パリに集まっていた各国の君主たちへ奴隷の解放を訴える。1815年10月、ナポレオンは完全に敗れ去り、孤島セントヘレナへ流された。フランスではルイ18世が即位、再び王政へと戻ることになる。
 1817年、ジェルメーヌは『フランス革命についての考察』を遺して亡くなった。この革命による死者は、1789年から99年までで60万人以上、その後のナポレオン時代では90万と言われている。

<参考文献>

[全体]工藤庸子『政治に口出しする女はお嫌いですか?―スタール夫人の言論vsナポレオンの独裁』勁草書房 2018
[7]鳴子博子『ジェンダー・暴力・権力―水平関係から水平・垂直関係へ』晃洋書房 2020 pp25-43
[8]ハールバート, ホーリー監『WOMEN 女性たちの世界史 大図鑑』戸矢 理衣奈 日本語版監修 河出書房新社 2019 pp144-5
[9]佐藤雄亮『トルストイと「女」 博愛主義の原点』早稲田大学出版 2020

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