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第二共和政とフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑯

・普通選挙、社会主義への反動、六月事件

 選挙が一週間後に迫った4月16日、五万の労働者たちが市庁舎へ行進した。呼びかけたのはルイ・ブランで、体制から労働者と社会主義者の排除が進められつつあったことに抗議するものだった。既にルイ・ブランは「労働者のための委員会」をつくり、労働時間を10時間に制限するなど、臨時政府の中で一定の成果を挙げていた。彼はこの委員会に現場の労働者や社会主義の思想家を参加させ、共に協力しながら雇用主と労働者の調停、賃上げ要求を聴くなど、労働者のさらなる権利向上を図ろうとする。だが警戒を抱いた保守派やブルジョワジーは反動的な動きを強め、民衆に対し「共産主義の恐怖」を煽って投票をコントロールしようと画策した。
 この日のデモには、ルイ・ブランの友人であったサンドも加わっていた。女性という枠での連帯を拒んだサンドだが、それはプロレタリアとの連帯を優先する故のことだったようである。政府はデモに対し同じ規模の兵士を動員し、その一部はデモ隊を取り囲んで「ルイ・ブランを討て、共産主義者を河へ投げろ!」と脅迫した。保守派のもくろんだ通りに、民衆の分断は日を追うごとに深まっていた。
 サンドは選挙が反動的な結果となることを見通し、『共和国広報』で次のように述べている。

選挙が社会の真理を退けるなら、もし一階級のみの利益を代表し、民衆の高潔さを欺くのなら、共和国は終わりである。...民衆にとって救いの道は一つしかない。もう一度その意志を示して、誤った決定を引き延ばすことだ

サンド

サンドは思想家ルソーの「人民主権」の哲学に影響を受けていて、この言葉には彼の議会を絶対視しない直接民主主義的な考えが表れている。
 
 予想された通り、23日の選挙は上流階級が多数を占める結果となった。ルル―も立候補していたが落選し、彼のような左派の代わりに共和政に批判的な王党派が多く当選した。ルイ・ブランは新たな議会で敵視され、重要産業の国有化、協同組合への出資や各産業の間で自主的な連帯を図る労働省の設置を提案するも、瞬く間に否決された。5月10日、臨時政府の指導者層が改められ、ラマルティーヌは力を弱める一方で右派が台頭した。
 5月15日、パリの労働者や地方の職人組合、ロシアの支配から逃れた亡命ポーランド人を含めた抗議デモが主催される。対し政府はリーダーの多くを投獄し、これを契機に弾圧の手を強めていった。サンドも参加していたが、彼女は逮捕を免れることができた。5月30日、ルイ・ブランを告発する提案が議会でなされ、続いて国立作業場が「悪の社会主義」
のレッテルの下で攻撃された。失業者のセーフティネットであった国立作業場は廃止され、救済にあぶれた労働者たちは追い詰められた。
 社会主義者へも中傷が浴びせられた。標的の一人となったサンドは、周囲の脅迫にも萎縮せず、従兄への手紙の中でこう述べている。

私は最後の最後まで貧者の味方だ。断言する。迷える彼らの手で引き裂かれようと、...民衆万歳と、私は言ってのけてみせる

サンド

 6月23日、数千の労働者がパンテオン広場に集い、「パンか、銃弾か」と繰り返した。既に政府の保守派は、労働者たちの声を徹底的に押し潰す準備を完了させていた。ラマルティーヌは流血を避けるため、軍隊とデモ隊の衝突を止めようと動いたが、無駄に終わった。右派にすり寄っていた国防相のカヴェニャックは戒厳令を発し、労働者たちに砲撃を開始するよう軍に命令した。数日にわたって兵士と労働者の戦闘が続き、社会的弱者である労働者側は三千以上の死者を出した。この事件は政府側から一方的に「反乱」とみなされ、関係者と決めつけられた者たちが次々と捕縛されていった。「六月の虐殺」とも呼ばれるこの変事の報を受けて、サンドは絶望を吐露している。「私は心が苛まれる。プロレタリアを殺すことで始まる共和国の存在などもう信じない」。

・社会主義からの反動、「女性の意見」、グージュからドロワンへ

 経済的な困難に加え、活動家への抑圧が強められたことで、ニボワイエ主宰の『女性の声』紙は6月で廃刊となった。この間、社会主義を掲げる男性たちが盛んに運動を起こしていたが、ルル―やオーウェンのようなほんの一部を除けば、彼らもまた『女性の声』を嘲笑う他の男性たちと大差はなかった。誠実な社会主義者であっても、誠実な「男性」であるとは限らない。『女性の声』の代表者ともいえるドロワンが批判せずにはいられなかった一人に、ピエール・プルードンがいた。プルードンは国家によるものであれ、資本によるものであれ、あらゆる抑圧に反対し、プロレタリアは一切の権力から解放されて自発性を取り戻すべきだと主張していた。人民による自発的な組織の形成を何よりも重視した彼は、マルクスやルイ・ブランと違って、社会主義の実現のためであっても政治権力を用いてはならないと考える。プルードンは六月の補欠選挙で議員となるや、反動勢力のますます強まる議会の中で四方から非難を浴びながらも、労働者の状況改善を訴え続けた。
 そんな「誠実な」プルードンだが、同時に次のような主張を平然と行っている。社会主義は、女性解放の声と連帯すべきではない。「女は影の献身をすべきであり、男の愛を信じて身を捧げるべきである」。ドロワンはこれに真っ向から反論した。

いえ、女性はもう愛を信頼するべきではない。男性のエゴイズムはいつもそれを悪用してきた。女性の道徳的退廃や社会全体の退廃もその不幸な結果なのだ。...男による女性の搾取の特権が続けば、他の悪しき特権もすべて、ひとりでに再生してくるだろう

ドロワン『女性の声』

 風刺画によって政治批判を為し、民衆に寄り添っていた画家のドーミエも、滑稽なイメージとしての「青鞜」をばら撒くのを躊躇しなかった。彼女らが諷刺の対象とされたのは、声を上げる女性たちを物笑いの種にする多くの下層男性の存在があったからである。
 

「担ぎ上げられる」ジャンヌ・ドロワン

 そのような逆風の中、ドロワンは『女性の声』を引き継ぐ形で、8月に『女性の意見』紙を創刊し、その趣意として以下のように述べる。

今までは男性のみが人類の運命を決めてきたのである。女性は社会の礎である原理を議論するあらゆる宗教的、政治的集会から排除されてきた。男性の傲慢さに分断された人間の知性は真理の一部しかみることが出来なかった。,
...政治においても、人々の権利は強者の権利のもとに築かれ、裁判は特権者のために、何人かの自由は大多数の奴隷制の上に、秩序は専制の上に、道徳は誤った理論、不完全で圧政的な法律の上に築かれてきた

ドロワン

 ドロワンは女性が政治に加わり、その意見を届けることで戦争や貧困などが除かれ、抑圧されていた人々の肉体的、精神的な能力を解放できると考えた。翌1849年の2月号ではポーリヌ・ロランとともに、社会主義的な教師の協同組織を作り、給与の削減に歯止めをかける計画を打ち出した。トリスタンの友人でもあったロランは、ブサックという街でルル―とともに社会主義的な共同体を運営しており、革命後にはルル―を市長に当選させる運動に成功していた。ロランはまた新聞紙上で男女の同等な教育により男性の圧制を止めるよう訴えるほか、ブサックで男女普通選挙を行うよう請願したが、これは聞き届けられなかった。さらに政府の圧力によって出版や販売の規制が強まると、女性集会への出入りを禁止されるなど、活動はより困難になっていった。
 なお、彼女らの闘いは続く。4月の号では「民主的社会主義者へ」と題して、ドロワンは理念の実行のために、選挙への立候補を宣言する。サンドよりはるかに知名度で劣っていたドロワンだが、半世紀前に『女性の権利宣言』を発したオランプ・ドゥ・グージュを敬う彼女は、行動する価値を過小評価してはいなかった。彼女は嘲笑を浴びながらも、財産、人種、そして性別に基づく支配関係を自身への投票によって壊してほしいと、威勢よく有権者たちに訴えかけていった。ドロワンはいくつもの選挙集会に出かけては、立候補にあたっての演説をさせてほしいと申し出たが、憲法に反すると無下に断られることが繰り返された。それでも中には熱心に賛同してくれる人もいて、ドロワンとその仲間たちは5月の投票日まで東奔西走して女性の声を響かせた。だが、男性の優越を疑わない者が未だに大多数であり、5月の選挙で彼女らはあえなく落選した。

・「馬上のサン=シモン」、ナポレオン三世、革命の滅亡

 ところで、ドロワンら「青鞜派」の女性解放運動を可能にしたのも、労働運動やマルクスの理論を支えた「階級」という概念が広まったのも、元を辿ればサン=シモン主義の影響が大きい。一方でサン=シモン自身の思想についていえば、彼は資本家と労働者の間の上下関係を許容し、階級が必ずしも対立的なものとは捉えていなかった。彼は資本主義的な発展を楽観的に考えていたようで、それにより人類を進歩させ、システムが成長することでより多くの「幼い子供」を導くというビジョンを持っていた。サン=シモン思想のこのような側面は、ともすると独裁や帝国主義さえも肯定する方向へむかいかねないものであった。実際、弟子の代表格であるアンファンタンはフランスによるアルジェリアの人種差別的な植民地政策に賛同し、権力を用いて労働者を規律することを主張していた(この考えに異を唱えたのもサン=シモン主義の影響下にあったフロラ・トリスタンだった)。つまり、サン=シモン主義という潮流の中には、労働者の解放と抑圧の論理が同居していたのである。
 1848年の6月以降に起こったことは、まさしくサン=シモン主義の二面性ゆえに生じた、と言ってよいかもしれない。プルードンが当選したのと同じ補欠選挙で、「ナポレオン」という名の議員が誕生した。将軍ナポレオンの甥、ルイ・ナポレオンである。「馬上のサン=シモン」という呼び名が示すように、彼もまたサン=シモンの思想に共感する一人であった。帝政への警戒から、長年の間ルイ・ナポレオンは祖国フランスからの亡命を余儀なくされていた。1844年に彼が獄中で書いた『貧困の根絶』は、彼が資本主義による格差に無関心でなかったことを示している。だが彼はその叔父と同じく、独裁への道を進んでいったのである。

 1848年12月1日、革命後の混乱に乗じて、ルイ・ナポレオンは大統領に立候補する。他の良識ある共和主義者たちとともに、サンドはこれに強く反対した。彼女は、この男が制度的にも思想的にも革命を裏切る存在であると気付いていたのである。だが、ルイ・ナポレオンは大半の民衆の支持を受けて選ばれた。過去の「英雄」への幻想から、人々は自由になることは出来なかった。サンドの心は暗く沈む。

ナポレオンを選んだ民衆のために、おそらく心配で震えることになろう。しかし彼らがどんな危険に飛び込もうと、そこから脱け出す手助けをし、彼らとともに滅びるために、民衆に従ってゆこう

サンド

 民衆の運動、言論に対する弾圧はさらに悪化し、革命の勢いは押し殺されていった。抵抗する者、社会主義者の疑いをかけられたものは次々と投獄された。ロランとドロワンも政治活動を咎められ、1850年の末に捕縛される。二人は一年と少しで釈放されるも、抵抗運動を続けようとしたロランは再び捕らえられ、アルジェリアへ流罪となった。ドロワンはロンドンへ亡命せざるを得ず、貧窮を強いられた。1851年12月、ルイ・ナポレオンはクーデターを起こし、ナポレオン三世として皇帝に即位する。半世紀前の再現である。
 サンド自身は逮捕を逃れたものの、彼女の友人の多くが重い罪を科せられた。弾圧で働き手を失った労働者の家族を支援するほか、サンドはルイ・ナポレオンや政府の有力者に無数の手紙を送り、友人たちの減刑や恩赦を求めた。そのうちの一人、ロランは恩赦を得てフランスへ帰ることが許されるが、アルジェリアから戻る船上で病死した。47歳であった。
 ナポレオン三世の即位と革命の鎮圧を受けて、当時ロンドンにいたマルクスは一冊の書をしたため、こう記した。

ヘーゲルは言った。あらゆる偉大な歴史的事実と歴史的人物は二度現れると。一度目は悲劇として、二度目は茶番として

マルクス『ルイ=ボナパルトのブリュメール18日』


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