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あなたを罰してるのはあなた

罪悪感がすべての原因

ずっとずっと昔。「【罪悪感】がすべての原因なんだよ」とある人から聞いたが、私はその後、他のさまざまな理論や原理について学んでいく機会を得ていたので、そのことにずっと注目し続けたりはしなかった。

だって、そうでしょう? 罪悪感? そりゃ良くないでしょうよ。罪悪感と聞いて、暗いイメージを持たない人なんていないだろうし、それが根源と言われたら、まあ誰だって、ちょっとくらい持っているだろうと簡単に想像できる。

だけど、今、私は思う。【罪悪感】こそがすべての原因だと。

心をいつもヒヤッとさせる罪悪感

何か楽しいことをするとき、ちらっと思ったりするのだ、「私だけが楽しんでいるけどいいのかな」。思い切り楽しんでいるときも、意識に上らずとも思っていたりする、「こんなに親切にされてるけど、いいのかな」。家族のもとに帰る時に思う、「自分だけ美味しいもの食べちゃったな」。何か悪いことが起きると思う、「ああ、やっぱり、私のあれが悪かったんじゃないか」。とてもひどいことがあると思う、「もしかして、私がああしたから、こうなってしまったんじゃないか」。

罪悪感は、私たちをヒヤッとさせる。私たちの心は100%自分で意識できないけれど、きっと、100%ハッピーにはなれない。意識できる部分だけでも、私たちの心をよくよく見ると、どこかに冷えている部分がある。うまく、見た目にごまかしている人も、きっと床面をガラスにして下から見たら、冷やされている部分が隠れているだろう。私には、私がどんなに落ち込んだり、不安にさいなまれているときでも、一貫して楽天家で能天気な夫がいるのだが、そんな彼だって、深堀りすると罪悪感がひょっこり現れることがある。普段が普段だけに、その深さは深い。本人の自覚に関わらず、罪悪感は誰にも存在しているのだ。

私たちは、自分で自分を罰している。その割合は人によってさまざまで、前述したように、うまく意識下に隠している人もいるし、人には知られないようにしている人もいるけれど、それでも私たちの心には潜んでいて、それが私たちが100%現実にハッピーでい続けられない原因になっている。

つまり、①ハッピーの起因は自分自身である、②自分のどこかに罪悪感がある、③その自分が元になっているために、ハッピーにはなれない。どうやら、そんなシステムになっている。

私たちに罪はあるか

私たちに、罪があるか。ない。私たちには罪はない。

私たちは「罪を持っている」という妄想を抱いているだけだ。大体、罪とはなんなのか。まあ、これを言っちゃ「社会が成り立たなくなるだろう」と正論で反論されるだろうし、世の中の人全員とこのことを分かち合おうとは思わないけれど、罪とは人間が勝手に作り出した、ただの概念だ。歴史を見ると、殺人だって罪とされなかったことだってたくさんあるし、「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」というジャイアン的な窃盗だって、権力のある人には許されてきたではないか。人間の最大の恐れの対象である【死】さえも罪にしなかったことが一度でもある時点で、本当に、「罪とは何ぞや」、だ。つまり、《罪とは、人間が作ったもの》、以上。ってことだ。罪は作られたものだ。

人間は罪を作り、人にも自分にもそれを当てはめている。法で定めてもいるし、ルールやマナーやモラルでさらに固めて、さらには日常でも自分を罪悪感で縛っている。間やあうんの呼吸を大事にする日本では、その間を「すみません」「ごめん」と言って、さらにへりくだる。空気読めないだけで、自分を責めたり、空気を読めない相手を非難したりする。

余談になるが、国際結婚をした友人は、夫が当たってテーブルのグラスが落ちて割れても、「自分がわざと壊したわけではない」という言い分で、まったく謝ってくれないのと言って腹を立てていたけれど、よく考えたら、「そんなことで謝らなくてもいい」という言い分の方がだんだん素敵に思えてきた。円滑油としての文化だということは承知の上だが、日本人は謝りすぎている気がする。

もしかしたら私が悪いのかもしれない

それもこれも、「もしかしたら私が悪いかもしれない」という発想があるからなのだと思う。「謝ったらなんとかなる」という発想もあるだろう。実際に、なんとかなってきた。とりあえず、その場は。

でも、知らなかったのだ、そうした発想と心の使い方が、私自身のしあわせと深く関係していたとは。それを繰り返すことで、さらに心を冷やしていたとは。

現代人で、「私は100%悪くない!!!!」「私には何の罪もない!!!」と、すべてにおいて正直に、大きな声ではばからず公言できる人は、どれくらいいるだろうか。正直であろうとすればするほど、「いや、あの時、言い出せなくて嘘ついちゃったんだよな…」「人に言ってないけど、こんなことしたこともあった」「あの人に悪いことしちゃったこともあったんだった…」と、自分を赦していないことが、浮き彫りになってくる。

私たちが自分を赦すのは難しい。同じくらい、人を赦すのも難しい。

罪悪感が前提になっているゲーム

ただ、難しいからといって、そのまま放置していても、状況は変わらない。原因がこれかもしれないと発見すると、発見の喜びはあるけれど、それだけで現実を変えるのは無理がある。私たちは、実際の手立てを模索していくことになる。

私がその手立てを模索した変遷は、またの機会に書くとして、今分かっていることを書こうと思う。

手立てはいくつかあるけれど、実際にはとてもシンプルだ。その一つは、《この罪悪感を前提としたこのゲームに参加していることを知ること》。このゲームに参加したこと、今現在も参加しているということを認め、そんな自分をOKすることだ。

まあ、このゲームに参加した覚えもなければ、これがゲームだとも思えないと思うので、最初は意味が分からないだろうけれど、《仮定して考えてみる》ことから始めてもといいと思う。「今見えているこの世界を、まさかとは思うが、とりあえずゲームだとして考えてみよう」「いつから参加しているのか分からないけれど、どうやらこのゲームに参加しているらしい」「私は登場人物としてここにいるらしい」と。

そしてさらに、「このゲームには前提があるらしい」と意識してみるのだ。

ゲームをしている実体としてのあなたは、罪悪感を持たない

前提というのは、とても巧妙なもので、前提と言われると、それ自体を私たちたちはやすやすと受け入れてしまう。順応してしまうのだ。

たとえば、「登場人物はみんな動物です。あなたは言葉が使えないので、身振り手振りでコミュニケーションしてください」という前提のゲームなら、あなたはその前提に異を唱えたりせずに、その前提の中でできることを探すはずだ。だって、それが前提なのだ。前提に文句言っても変えられない。ゲームに参加した以上、その前提を私たちは受け入れる。

それと同じく、私たちは《罪悪感》というものを前提としている。なぜ罪悪感があるのかは、奇跡のコースを学べば分かるので、読むのもお勧めしたい。

私たちは、ずっと罪悪感を感じているのは辛いので、罪悪感を薄めるためにあれやこれやとゲーム上で模索している。他人に転嫁してみたり、自分に罪を感じて沼でもがいたり、罪悪感をマヒする方法を考えたり、なんとか建設的に罪悪感を癒そうとしてみたり。でも、どれも難しい。罪悪感は後付けではなくてスタートの時点で設定されているようだ。

でも、ゲーム上であれこれするのをやめて、そもそも論で考えてみよう。もし、あなたがゲームをやめたとする。ゲームをやめたあなたはどんな存在? 動物の国ゲームをやめたら、その人はまだ動物? 罪悪感ゲームをやめたあなたは罪がある存在? 私たちはこの人生を生きながら、ゲームをやめることは可能だろうか?

人生を生きながらエゴのゲームをやめる

前提が入れ子のようになっていて、頭が混乱するが、結論から言えば、生きながら悟りを得ることは可能らしい。この人生を続けながら、ゲームをやめるのは可能らしい。嘘だと思ったら、ご自身で、仏教や信頼のおける高僧の文献を調べていろいろと読んでみるといいと思う。私は仏教だけを勧めるわけではないけれど、仏教の文献の方が人為的な操作が少ないと思う。個人的に尊敬し、よく想像してみるのは白隠和尚だ。私の見ているこの状況を、彼だったらどんな風に眺めるだろうかと日常においてよく想像する。

一般人の私たちにとって、悟りやエンライトメントと聞くと、「自分にはまったく縁のないものだ」ときっと思うと思うけれど、どうやらそんなことはないようだ。もちろん、今の段階で全人類が悟るとは思わないし、みんなが救われる必要があるとか内心思わないけれど(笑)、この罪悪感のゲームに苦悩し、なんとかしたいと思っている人は、きっとこうした概念が役に立つようだ。今すぐ何とかならなくても、その視点を養うことが、大きなヒントとなることは私自身が体験してきている。

特に修行もいらない。誰かに師事することも必要はないし、まして宗教に入る必要もない。私たちがそこからもう出たいという気持ちがあれば、そのドアを開くことができるのだ。

自分を罰する理由が存在しないことを理解する

私たちは赦しを実践することで、自分のことも、他者のことも、愛をもとにした視点で見ることができるようになる。あなたがもし奇跡のコースを学べば、罰するようなことは何も起こっていないことも分かってくるだろう。ちなみに、このコースは宗教とも心理学ともカルトとも何の関係のない複数の書籍だ。誰でも何の強制もなく学べる、解放されたものだ。

自分が塵ほどの罪もない存在であることを本当に理解したり、思い出したりするとき、私はふんわりほどける感覚を味わう。と同時に、《つながり》の前提で生きようとしても、つい世界を真実として認識し、恐れに備えていたり、エゴの声をつい聞いてしまっていることを発見する。どこで生きるのか、何を選択するのかを私たちは一瞬一瞬選択していかなければいけない。

本当の意味でつながりの中にいれば、そこにはどんな罪も存在しえない。


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