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私たちに世界は変えられない

世界がより良くなるようにと願う心

ずっと以前は、世界がもっとよくなるといいなと思っていた。もしも自分が、世界がよりよくなる一端を担えたりできるというなら、それは嬉しいことだと考えていた。戦争がなくなり、飢餓や暴力や貧困がなくなればいいと心から願っていた。差別や抑圧や搾取、孤立や自殺からいじめ、それから災害まで、世界にはなくなればいいと思うものがたくさんあった。

友人は世界をよりよくするために活動を長年続けている。署名運動をしたり、よりよくしてくれそうな政治家の活動を応援したりしている。

いろんな活動がある。 ユニセフのCMを見ると心動かされるし、応援したい活動への気持ちを募金という形にしたこともある。実際に大学の時にはNGOの活動も手伝っていた。

でも、分かったのだ。私がすべきことは〈世界を救うことではない〉ことが。

世界は何によって造られているのか

自分が世界を救えると本気で思っていたわけではないのだが、こうした思いが集まったら、世界を変えていくのだと本当に思っていた。「何言ってるんだ、実際そうじゃないか」という意見をお持ちの方もいると思う。でも、本当のところ、世界は変わっていない。世界は良くなっている? 本当にそう言い切れるだろうか。活動家や団体から、たくさん反論が聞こえてきそうだけれど、そうなのだ、世界は変わらない

世界が変わらないのは、〈そういう構造〉になっているからだ。世界はエゴによって造られたものだ。分離によって造られたものだ。そこで行われていることも、エゴや分離が基礎になったものだ。戦争も、孤立も、利権争いも、貧困も、〈分離が形になったもの〉だ。エゴは特別感や優位性、権威や力の餌をちらつかせ、私たちに恐れを喚起させる。私たちはその恐れが現実にならないように手を打つのだ。恐れによって行動することは、分離への道をたどる。私たちはみんな、まんまとその罠にはまっている。

私たちの日常にもある戦い

面白いのは、分かりやすく〈戦争〉という形でなくても、私たちの周りには、争いや差別、いじめや暴力といった形で、いつでもどこでもエゴによる分離が存在していることだ。戦争は私たちの知らないところで起きているわけではないのだ。むしろ、私たちの周りで日常に起こっている。

以前関わったNGOの活動の中でも、人間関係においてのパワーゲームや自分の力の証明は根強く存在していた。愛情からの活動においてさえ、私たちは愛に強くいることは難しいし、そうした活動をしたからといって、自分が愛の人になれるわけではないのだ。それほどまでにエゴはパワフルに私たちを操作し、私たちは無意識に分離の道をたどってしまう。

体験にいい悪いはない

エゴが造ったのは、私たちには現実世界のように見える幻想だ。そこでは、私たちは世界というゲーム版の上に乗っているただの登場人物だ。「何のためにここにいるのか?」と登場人物は考える。せっかく居るのだから、重要人物になりたいし、この悲しみや恐れの存在するゲーム版を居心地良くできるというならそうしたい。ここを美しいものにすることで、自分が存在する意味を見いだしたい。私たちは自分のエゴによって、現実と思われるものにどっぷり浸かる。

そうやって、私たちの一部は戦いを繰り返し、私たちの一部は世界を良くしようと動く。ゲーム版は変わらないのに。戦っても、支配しても、優しくしても、世界の役に立とうとしても、私たちはみんな同じ登場人物の一人だ。だれがいいとか悪いとかなんてないのだ。

盗人もお坊さんも軍人も主婦も一緒?

「ということは、見つからないように盗みを働いたり、誰かを騙したり、いじめたりした人と、誰かの役に立つために頑張った人や、誰かのために声を上げた人とは一緒ってこと?」…そうです。

一緒だと分かったら、あなたはどんな気持ちがするだろう。じゃあ、自分も好き勝手しようと思うだろうか。それとも「どちらも一緒だなんて、ズルいじゃないか」と思うだろうか。

実際には、私たちの奥深くの罪悪感は現実となって立体的に形作られてしまうので、罪悪感を深めるようなことをわざわざしなくたっていいと思うけれど、それだって、自由だ。罪悪感にさいなまれる体験や、罪悪感を無視して突き進む体験や、罪を償う体験が必要な人だっている。私たちだって、過去の人生でそれらをきっと体験してきたのだと思う。どの体験もいいのだ。この世界はそんな体験をする場だ。ホラーを楽しむためにホラー映画の中を体験しているのに、そこで環境問題の活動をしたり、いじめ廃絶のデモをするのは、ナンセンスだとあなたも思うでしょう?

世界はお絵かき帳

世界はおえかき帳にも例えられる。お絵かき帳で、キレイに描いても、殴り描きでも、切り貼りしても、破いても、紙飛行機を作ってもどんなことをしてもいいみたいに、この世界もどう使おうといいのだ。使いたい人が使いたいように使ってみていい。大事なことは、〈世界がどうあるか〉ではなくて、《あなたがどう在るか》ということだけだ。あなたはこのお絵かき帳で、どんなことをしようとしている? エゴを満喫する? 苦悩を味わいきる? お札をたくさん作ってみる? それとも、「お絵かき帳の使い方が悪い人がいる」と騒ぎたい?  

「私たちはしあわせになるために生まれてきた」とある人は言うけれど、私はそうは思っていない。「私たちは体験を積むために生まれてきた」と言うなら、ぴったりくる。その体験の善し悪しなんて、本当のところ、私たちには分からないのだ。私たちは体験をし、それらが全部必要なものだということだけが分かっている。

世界を変える力を自分の変容のために使う

今世で悟りを得る人は、確かに全員じゃない。でも、私たちはそれぞれ何らかの体験を積む。そうやって、本当の真の存在へ戻る歩みを進める。

体験は役に立つ。「もう恐れや苦悩から抜け出したい」という体験での思いから愛を選び、真実に気がつくようにしてくれる。もしあなたが、今そんな風に思っているなら、老婆心ながら言うと、あなたの力を世界を変えるために使うのではなく、自分のために使った方がいい。世界は変わらない。繰り返すけれど、ただのお絵かき帳なのだ。

心配しなくても、戦いはあなたの周りでも起こっている。世界を変えようとした力を使って、あなたの愛によって、身に起こること全てを赦してみればいい。やってみると、それがどんなに苦心することか分かるだろう。巧妙なエゴのトリックに捕まらないことは、力と注意の必要なことだ。今までみたいに、活動をしていた方がずっと簡単で、楽だったと思うに違いない。

実際私はそう思った。自分事に置き換えると、なんとも骨が折れる。他人事の方が楽だったかもしれないと思った。私たちがこれまで、いかに自分のことはさておいて、実体のよく分からない世界を変えようとしていたことが実感できる。けれど、その実感こそが、あなたがこれまで活動してきた、大切な体験になっていく。

私たちが見ている世界の外側

今回、NOTEの投稿写真を使わせていただいた。一番最初に貼り付けた、鏡を自撮りしている写真だ。良かったら、スクロールして、タイトルの前の写真を見てみて欲しい。とても面白い写真だと思うのだ。もしあなたがエゴのトリックが知りたければ、参考になりそうな写真だ。というのも、私たちはどこに焦点を合わせ、どこで生き、世界とはどこかのかを考えるのに、とても分かりやすいから。

あなたが見ているのはどこだろう? カメラに映る映像? 鏡に映る自分とその世界? 鏡の外の世界? ソレトモ? 

一番外の本体である私たちはすでに完璧で、心配せずとも途方もなくしあわせな存在だ。私たちは本当にまだそれを思い出せていないからこそ、鏡だったり、ファインダーから見える世界で、いろんな体験を積んでいる。もうそろそろ、ホラー映画を見るのはやめて、自分の真実の姿に気づけるようにシフトしていくというのはどうだろう。

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