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他人への扱い方は自分への扱い

他人への批判

かつて、私は他人に厳しかった。対外的にはいい人を装っていたが、内心はシビアな感想をいつも持っていた。「それって、こうだからじゃないの?」「そんなこと言っても実際にはできないよね」「いい人に見られたいのね」「中身は子どもだなあ」「もっと考えないとね」。その人には決して言うことはなかったが、仲間と思われる人には「ここだけの話」と言って、愚痴ったりした。

「ここだけの話」をやめようと思ったある出来事

きっかけは、ある人からの辛辣な連絡だった。仲良くしていた人から、唐突に「私はドロドロした女のなれ合いの関係はごめんだから」と連絡が来たのだ。これには相当びっくりした。彼女とそんな風にドロドロした女のなれ合いの関係を作った覚えがなかったからだ。そして、彼女に私がこれまでどんな言動をしてきただろうかと思い返してみようとした。彼女は何でそんな風に思ってしまったのだろう。

自分には身に覚えがないことで、もちろん、反応してしまう彼女自身にも傷があるのだろうけれど、何かしら私自身も今学ばなければいけないことがあるような気がした。「これが気に障ったのだろうか」とか「ここに刺激されたのだろうか」などと思い出しながら、とても彼女が自分と近しい素敵な存在だと思っていた私が、彼女に甘え、心を許して、「ここだけの話」を気楽に話しすぎていたのかもしれないと思った。

彼女の発言についての真相は今でも分からない。もうすでに、この出来事は真実に起こったことではなく、エゴによる幻想だと認識してもいるし、彼女を赦し、その幻想を見た自分のことも赦した。でも、あの時からだ。私は「ここだけの話」をもうやめる時期なのだと思い、やめると決心した。

噂話は蜜の味

「ここだけの話」は私にとって、魅惑的なことだった。「ここだけの話」で語られることは全て妄想だ。そこで語られる登場人物について、私たちは本当のことは知らないし、確かめようもない。もし想像したものが本人の気持ちや現状に添っていたとしても、結局はそれすらも幻想でのことであって、真実ではないのだ。(私たちが現実だと思っているものは、本当には起こっていない)

でも、私たちは話す。時には悲しく、時には怒って、時には他人の噂という蜜を楽しみながら。誰かとそんな話をするのは、対象が自分ではなくて、とても気楽で楽しめることだった。逆に、そんな話をしないと、世間では仲間意識を保てないような気さえしていた。誰かを批判にさらし、指さすことで、指さした私たちとしての仲間意識を味わえるし、指ささない人は指さされる対象になるような、そんな恐怖があったのだ。

私が指さしていたのは誰か

けれど、その一件から、私は《愛のない他人への発言》を自粛した。そこからも、人間関係で迷うこともあったので、もちろん、ポロッとこぼしてしまうことはあったけれど、それでも必ず、相手を批判したり非難して終えることがないように注意した。他人への判断を、自分の学びにしていくように努めることにしたのだ。

そんなことがあったおかげで、今の学びの中で「他人に対する態度は自分に対する態度」だと学んだ時は、「そういうことだったのか」と理解が進んだ。

私たちが指をさして、批判していたのは、それぞれに、自分自身だったのだ。

自分に罪を見いだすことは怖いこと

私たちは自分の中に、彼らの要素を見ることが怖くて、外部に自分の内側を投影し、「あれは自分ではない」と言いながら、指さしていただけだったのだ。それは、気持ちのいいことだっただろう。ただし、その快感は一瞬しか続かない。いくら指さしても、自分はしあわせにはなれない。その外に見て反応を起こしているものは、いつまでたっても、私たちからは離れていかない。人を変え、場所を変え、状況を変えて、私たちにつきまとうし、逃れることはできない。「私じゃない」「あなたが悪い」といくらいっても、私たちはどこかで罪悪感を感じているし、彼らを指さし、自分自身を指さしているのだ。

自分の内部を本当にのぞけば、自分にどれほどの判断と罪の意識と否定感があるかを思い知らされる。だからこそ、私たちは自分自身にはその罪がないということにしたくて、それを外部に転嫁したのだ。

真実のレベルで見ることの重要性

ただ、重要なことに、私たちは注意深くいなければならない。「他人じゃなくて、自分だった」、と反省したり自分を責めても解決は決してしない。《私たちに罪があることは、真実ではない》ことを、知っておく必要があるのだ。夢は二重三重になっていて、私たちはもっと目をこらして、真実のレベルまでたどり着かないと、根源の原因から変化を起こせない。大事なことは自分自身に罪があると認めることではなくて、罪がある夢を見ていることに気づくこと。そして、本当の自分という存在のその正体を見つけることだ。

赦しの実践とその後

かつてその辛辣なメッセージをくれた相手を、それから今まで自分のストレスの対象であった人たちを、赦す作業に私は取りかかった。彼ら一人一人が、もともと私が持っていた《認めたくない要素》を、私に見せてくれた人たちだった。そして、結果として、私が深い洞察を得るチャンスをくれたありがたい存在だった。

過去のそうした体験も、それを体験した自分自身も、赦す作業を続けることで、ふと振り返ってみると、私は自分を指さす視点が、驚異的に少なくなったことに気がついた。まさかそんな構造だなんて知らなかった。「あの人は間違っている」「あの人は問題を抱えている」と指させば、自分は安全圏でいることができるのだと、信じて疑わなかったのだ。

でも、違った。外を責めずにいれば、自分も責められず、外を赦せば、自分も赦されるのだ。なんで、そんなことに気がつかなかったんだろう。誰にも教えてもらえなかった!(笑) 私の知っている世間のほとんどの人は、そうやっているように見えていたのだ。

愛を持って世界を眺める

こうしてその真実を学べたからこそ、私は愛を持って、誰かとそれを分かち合える。自分に優しくいられるって、とても気持ちのいいものだ。「優しくしよう」として優しくするのではなく、花を愛でるように、その延長で、近所のおばあさんや、家族や、自分や、見ず知らずの人や、ストレスを持てあましてきつい態度に出てしまう人、みんなをふんわりを眺められると、世界はなぜか変わってきた。原因に注目することで、世界が変わっていくとはこういうことなのかと、ほんの少し実感した。

もちろん、これからも、大きな課題に直面した時は、愚痴りたくなることもあるだろうが、この眺めればいいのだという位置を経験したことはとても大きいことだ。我を忘れても、またその場所へ戻る努力をすればいいのだ。

獲得したこの位置のしあわせ感を一度でも感じられた人は、時間が経過しても、必ずその位置に戻れる。それくらい、しあわせ感というペグは、私たちの大きなペグになってくれるものだ。



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